石田三成の実像2688  大河ドラマ「葵 徳川三代」9 家康弾劾状を発する前に大坂入城?

 大河ドラマ「葵 徳川三大」では、反家康の挙兵を決意した三成が大坂城に乗り込み、三奉行を説得し、手順を説明していました。三奉行の名で毛利輝元に書状を出し、総大将として大坂城に迎えることを要請すること、やはり三奉行の名で家康弾劾状を書くこと、その前に家康に書状を送り「三成挙兵の兆しあり」と記し、家康に内通するふりをし、大坂城の体制がまとまらず、三成が孤立しているように思わせることなど。
 三成が大坂城に乗り込んで指示を与えるという描き方は映画「関ヶ原」でも同じでした。しかし、桐野作人氏が指摘されているように、 三成は挙兵した後も佐和山からしばらく動きませんでした。7月18日には豊国社参拝(秀吉の月命日)をし、29日に督戦のため伏見城へ赴き、その翌日大坂城に入城しています。それが、三成謹慎後初めての大坂入りだったと思われます。この大坂入りの直後に、三成は奉行に復帰しました。この点は、白峰旬氏が指摘され、ここで秀頼を推戴した二大老・四奉行による新たな豊臣公儀が形成されました。
三成が早い段階で大坂城に乗り込んだという描き方は、三成対家康という構図を強調したいがためでしょう。しかし、実際は二大老・四奉行対家康という構図であり、それを三成一人に持ってきたのは、三成が関ヶ原の戦いの首謀者であったという徳川幕府によって作られた奸臣説の影響ではないでしょうか。
 もっとも、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」は三奉行の名で出されているものの、その作成には三成が大きく関わったと思っていますし、そのことはオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「美濃 関ヶ原」の章でも記しました。とりわけ、その思いを深めたのは、「内府ちかひの条々」とほぼ同じ内容の「石田三成・増田長盛連署条目」があることを桐野作人氏が指摘された時でした。家康弾劾状が二種類あることは、桐野氏の「太閤死す!その時始まる『三成VS家康』暗闘の舞台裏を追う!(『歴史道 その漢、石田三成の真実』【朝日新聞出版】所収)の中でも紹介され、「連署条目」について次のように解説されています。
 「秀吉の命に背く家康に対し『謀反の心は極限に達す』と、強く非難している」
 「『内府ちかひの条々』は敬語だが、こちらでは『家康』と呼び捨てにしている」
 「『秀頼様の天下を奪う謀(はかりごと)だ』とまで言い切り、家康の謀反を糾弾している」と。
 もっとも、「この書状は偽文書の可能性も指摘されており、その真贋はいまだ不明だ」とも記されており、本物か偽文書か、今後の研究成果を俟ちたいと思います。
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