石田三成の実像2690 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」41

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑮「慶長3年12月7日、島津義弘は朝鮮からの撤退の様子を照高院道澄にしらせた」の中で、同日付の近衛家家臣・伊勢貞知宛島津義弘書状が取り上げられ、現代語訳されていますが、次のように解説されています。
 「島津義弘は加藤清正より9日遅れて、12月6日、壱岐勝本に着岸しました」
  島津義弘はその書状の中で、「照高院道澄による祈祷に感謝し、朝鮮半島からの撤退の経緯をくわしく説明しました。
  島津義弘は、7月から9月まで病床に伏していましたが、明軍の攻勢の直前に回復し、10月1日の泗川合戦では開戦の直前に奇瑞を見て、奇跡的に大勝利を得、さらに11月18日の唐島合戦では潮流に流され、明水軍の番船につかまりかけましたが、これも奇跡的に生還しました。これらの人並はずれた強運を、島津義弘は照高院道澄の神通力によるものであると信じ、感謝の言葉を述べています」と。
 島津義弘の強運は、関ヶ原の戦いの時にも如何なく発揮され、負け戦ながら、薩摩まで逃げ帰ることができたことによって、島津家の存続につながりました。道澄は、近衛稙家の子で、前久(龍山)の弟に当たり、聖護院門跡になっています。この書状の最後に、近衛龍山・近衛信尹から朝鮮半島までたびたび書状を送ってもらったことにもお礼を述べています。
 三成が朝鮮半島からの撤兵の役目を終えて、筑前を離れたのは12月10日過ぎの事だと思われ(中野等氏『石田三成伝』【吉川弘文館】)、三成は先に島津忠恒を伴って、島津義弘より先に大坂に戻っています。このことは高橋氏の同書でも触れられていますが、これについては後述します。
 ちなみに、中野等氏の「石田三成伝」には、慶長3年12月19日付の山口宗永宛西笑承兌書状の中に、「三成と浅野長政が朝鮮在陣の諸将へ充てて示した撤退方針」が記されていることが明らかにされています。その方針とは、「和議が確実なら人質を取り、講和の交渉者だけを釜山浦に残し置き、『しいの木島』は占拠すべきである。それ以外の諸将は、当年中に日本に帰還させてよい。(しかし)何らかの成果も期待できないなら、日本の将兵はいずれも帰国してよい」というものです。早い帰国を促す内容ですが、この写しが、「御奉行衆」(大老衆)「長男衆」(奉行衆)から提出されてきたことも書状に記されており、この撤退方針は、五大老五奉行の了解のもとであったことがわかります。
 
 


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