石田三成の実像2694  白峰旬氏「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」2

白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で取り上げられている「厚狭毛利家文書」の毛利輝元書状のうち、D文書と光成氏が名付けている書状について、詳細に解説されていますが、その続きです。
 「しかし、増田長盛は、(今後)そのままでいられないであろうから、(石田三成と)同様になるであろうが、この程度で済めばそれでよいとしている。このことは、この件の『あつかい』(=調停)を取り仕切った毛利輝元としての率直な感想であり、石田三成が佐和山への隠居程度で済んだことである程度安心した、ということになる。つまり、石田三成の佐和山への隠居は、処分としては軽微なものであった、という輝元の認識であり、三成の今後の政治的復権につながる、という思いであった、と推測できる」と。
 三成は翌年、家康の会津攻めの際、奉行に復帰し豊臣公儀の一員となるわけですが、それが可能だったのは、三成の隠居によって、政治的復権の道が完全に閉ざされたからではなかったというのが、白峰氏の見解であり、そのことがこういう書状の記述からも裏付けられたことになります。確かに、三成の奉行への復帰の可能性がなかったなら、翌年に三成が挙兵した後、早い段階で奉行に返り咲くことができたとは思われませんし、実際、白峰氏が指摘されているように、「内府ちかひの条々」が出されて以後、関ヶ原の戦いで敗れるまで、秀頼を推戴した二大老・四奉行による新たな豊臣公儀が成立し、家康の公儀性は剥奪されていたわけです。
 さらに、この輝元書状の中の三成の様子について、次のような重要な指摘が、白峰氏によってなされています。
 すなわち、「石田三成は放心状態になり、安国寺恵瓊(『長老』)に対して、三成は伏して拝み涙を流した、としている。三成は伏して拝み涙を流したことは、安国寺恵瓊が禅僧であったことによるものであろう。毛利輝元がこの書状にこうした記載をしたことは、三成と会った安国寺恵瓊からの報告に基づいたものであろうが、いささかオーバーな話に誇張された可能性も考えられよう。
 石田三成が佐和山隠居が決まった際に、安国寺恵瓊と直接会っていたことは、三成の佐和山隠居後の動向(政権復帰への方途を含む)について毛利輝元からの今後の助力を伝えられたことへの感謝のうれし涙と推測することはできないであろうか。
 なお、光成本(35頁)では、(中略)『ふし』を『ふみ=文』と読み替えて、『(三成から)安国寺恵瓊への書状を見て、(輝元も)涙を流しました。』と現代語訳をしているが、『ふし』は『伏し』と理解すべきであろう。よって、涙を流したのは石田三成ということになる」と。
 涙を流したのは三成だったということについては、谷徹也氏も同様の見解を示されています。「うれし涙」だったというのは、白峰氏の新たな見解だと思われますが、「悔し涙」であったという面は否定できないものの、感激したゆえのことでもあったのかもしれません。
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