石田三成の実像2707  白峰旬氏「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」13

白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で取り上げられている「厚狭毛利家文書」の六通の毛利輝元書状のうち、光成氏がA文書(46号文書)と呼んでいる書状も、反石田三成訴訟騒動があった慶長4年閏3月のものではなく、翌年の6月上旬の家康による上杉攻め直前の時のものだと推測されています。光成氏の同書でのA文書の現代語訳の続きです。
 「一、表面上はそのように申したのでしょうが、小西・寺沢が言っているところでは、大坂城は家康方の軍勢が支配していると聞きました。こちらは全く出入りが止められ、立ち入れないようです」と。
 原文の「彼衆」「此方衆」が石田三成方、「彼方衆」が徳川家康方を指していると捉えているのは、光成氏も白峰氏も同じですが、白峰氏の同書では、この部分の解釈として、次のように記されています。
「このことから、大坂城西の丸が家康によって占拠されており、石田三成方を排除している状況がわかる。
 こうした状況を打開するため、その後、7月に毛利輝元は上坂してすぐに大坂城西の丸にいた佐野綱正(家康家臣で大坂城西の丸留守居)を排除して大坂城西の丸に入っている(その後、佐野綱正は伏見城に移った)」と。
 確かに、この書状が反石田三成訴訟騒動の時のものとするなら、「大坂城は家康方の軍勢が支配している」という状況がもう一つ理解しにくい気がします。むろん、この書状の後の部分に、小出秀政・片桐且元が家康方に付いているという記述があり、光成氏はさらに藤堂高虎がこの時大坂城にいて多数派工作を行っていたと推測されています。しかし、この時点で、家康自身は伏見におり、家康が伏見城に入ったのは三成引退後のことであり、家康が大坂城に入るのは、さらにその半年近く経ってからですから、家康の勢力が反石田三成訴訟騒動の際、大坂城にまで及んでいたというのは考えがたいからです。やはり、この部分からしても、この書状は上杉攻め直前のものと考えられるのではないでしょうか。
 この書状の続きの部分の光成氏の現代語訳は次の通りです。
 「一、増田長盛が申されたことによると、どうしても石田三成が引退しなければ、決着できないと申されたようです」
 「引退しなければ」に当たる原文は、「身を引候ハてハ」であり、「引退」という言葉はなく、この部分についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「増田長盛が言うには、『とにかく石田三成が身を引かなければ、(この反家康の決起はこのままでは)決して済まない(=もっと拡大する)だろう』と述べた、としている。このことは、反家康の決起の中心人物が石田三成であったことを示している」と。
 三成が反家康決起に積極的だったことを物語る重要な一次史料だという気がします。
0

この記事へのコメント