石田三成の実像2710  白峰旬氏「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」16

白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で取り上げられている「厚狭毛利家文書」の六通の毛利輝元書状のうち、光成氏がA文書(46号文書)と呼んでいる書状も、反石田三成訴訟騒動があった慶長4年閏3月のものではなく、翌年の6月上旬の家康による上杉攻め直前の時のものだと推測されています。光成氏の同書でのA文書の現代語訳の続きです。
 「一、大坂城の番としては、小出秀政と片桐且元などが居るのですが、これらの人は徳川派です。このような時は何もかも不必要に思われます」と。
 この部分の、白峰氏の解釈・解説は次の通りです。
 「大坂城詰めとして小出秀政、片桐且元などがいるが、これは家康方(『内府かた』)である、としている」、この部分は上述の「『御城ハ彼方衆持候と聞え候』と同じことを述べている。この場合は『彼方衆』ではなく、『内府かた』というように明確に記されていることと、家康方として、小出秀政、片桐且元という名前が出てきている点が注意される」、この部分も「家康による大坂城西の丸占拠を示している」と。
 確かに、大坂城に関するこういう記述は、反石田三成訴訟騒動に関連するものではないという気がします。拙ブログでも以前紹介したように、白峰氏の「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武将襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動』である」(平成30年3月発行 別府大学史学研究会『史学論叢』第48号所収)の中で、次のように指摘されています。 
 「石田三成が大坂から伏見に移ったのは閏3月4日であり、その後、伏見で諸大名との間で『申合』、『訴訟』があった」
 「よって、三成は大坂で諸大名とトラブルがあったため伏見へ移ったわけではなかった(三成は敵対する諸大名を避けるために大坂から伏見へ逃げて来たわけではない)」
「三成が諸大名との間にトラブルがあった場所は伏見であり大坂ではない」と。
 通説では、七将に襲われそうになった三成が宇喜多秀家や佐竹義宣の助けで大坂から伏見に逃げたというふうに捉えられていますが、白峰氏は当時の日記などの関係資料の検討から、今までの通説を否定されているわけです。
 こういうことからすれば、訴訟騒動と大坂とは関係なく、A文書はやはり翌年の家康の上杉攻めの発動に関する時のものだという白峰氏の見解は、十分納得できます。
 

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