石田三成の実像2715 白峰旬氏「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」21

白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で取り上げられている「厚狭毛利家文書」の六通の毛利輝元書状のうち、光成氏がE文書(45号文書)と呼んでいる書状も、反石田三成訴訟騒動があった慶長4年閏3月のものではなく、翌年の家康が上杉攻めに向かい、「内府ちかひの条々」が出され、白峰氏が名付けられた石田・毛利連合政権が成立した直後の、7月中旬から8月頃にかけてのものだと指摘されています。光成氏の同書のE文書の現代語訳の続きです。
 「一、蜂須賀家政・黒田如水・加藤清正の方針は定まったようです。とにかく中国(=毛利氏領国)の一大事です。しかし、家康の懇意はいい加減ではないとのことです。彼衆(=三人衆)は身に覚えがないと聞いています」と。
 この部分についての、白峰氏の解釈・解説は次の通りです。
 「この3人(蜂須賀家政・黒田如水・加藤清正)は家康と非常に懇意である、としている」
 「『彼衆』(=蜂須賀家政・黒田如水・加藤清正)は、『あられぬ』(=そうあってはならない、或いは、とんでもない)と非難している。
  こうした記載からすると、毛利輝元は親家康のスタンスに立つ蜂須賀家政・黒田如水・加藤清正とは明確に敵対する立場を表明していることがわかるので、この書状は慶長5年7月中旬~8月頃のものと考定できる」
 「『両三人』については、毛利輝元が大坂城西の丸に入城した際に、子の秀就(6歳)が大坂城本丸の秀頼の元へ出仕したが、その時に児玉元兼・国司元蔵・児玉元次の3人が『御後見』として付けられたので、この3人を指す可能性が高い」などと。
 この「両三人」とは、E文書の最初にある文言で、光成氏の同書では「三人にお伝えになりましたか」と現代語訳されています。光成氏の同書では、この「両三人」とは、D文書(44号文書)にある「林就長・渡辺長・児玉元兼の三人の毛利家家臣を指してい」ると記されています。もっとも、白峰氏の見解では、D文書が石田三成訴訟騒動のものであるのに対して、E文書は上述のように、翌年の関ヶ原の戦いの直前のこのであり、D文書とE文書は別々の時期のものだと指摘されていますから、「両三人」は別々の人物を指すと考えるのが自然だという気がします。もっとも、少なくとも、「両三人」と蜂須賀家政・黒田如水・加藤清正の三人とは別という点では、光成氏も白峰氏も一致しています。
 白峰氏の同書では、「毛利輝元が毛利元康の健康状態を心配している」ことや「『下やしき』普請」のことも記されている点も、C文書、B文書、E文書、A文書は一連のもので、反石田三成訴訟騒動について触れたD文書、F文書とは違うものだと指摘されています。
 確かに、E文書が反石田三成訴訟騒動の時のものとするなら、親家康の立場の武将として、黒田如水の名があるのは不自然だという気がしますし、輝元にとって「一大事」だと言っているのも、いささか過剰な反応という印象を受けます。 
 

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