石田三成の実像2718 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」44

高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の「⑰慶長4年1月3日、島津龍伯は島津忠恒・島津義弘らに起請文をさしだした」の中で、その起請文の釈明内容について、通説のもととなっている島津家の編纂史料「義弘公譜」が史料として取り上げられ、その内容のおかしな点が5点挙げられ、その1点目は前述しましたが、2・3点目として次の点が挙げられています。
 「第二に、徳川家康と親しく交際してはいけないという『天下の制法』はなく、むしろ豊臣秀吉は慶長3年7月15日には島津龍伯に命じて、徳川家康へ起請文を差し出させています。
 また、徳川家康の邸宅を訪問した大名は島津龍伯のみではありません。たとえば慶長3年10月25日には増田長盛が徳川家康の邸宅を訪問し、夜まで雑談しています。
 第三に、『結交於家康卿互出入』とありますが、徳川家康は島津龍伯を訪問していません。通説では、徳川家康は本多正信の献策をうけいれ、多数派工作のために諸大名をつぎつぎと訪問し、島津を味方につけるため島津龍伯のもとを訪問したことになっていますが、島津龍伯の起請文覚書にそのくだりはありません」と。
 諸大名の家康邸訪問及び家康の諸大名訪問が、通説と違って問題視されていなかったという高橋氏の見解は以前にも紹介しました。一方、この起請文に関しては、桐野作人氏の「関ヶ原 島津退き口」(学研新書)の中でも取り上げられ、次のように記されています。
 「義久が家康と相互訪問している事実があったので、義弘・忠恒が太閤置目の遵守に抵触するのではないかと詰問したのだろう。太閤置目とは秀吉が他界した直後の9月3日、五大老五奉行が連署した起請文で、諸大名間で徒党を組まないこと(第三条)、五大老五奉行が諸大名との間に盟約を結ばないこと(第六条)などを誓約していた(『毛利家文書』3ー963号)。二人がとくに問題にしたのは第六条で、諸大名と盟約や婚姻をして派閥を拡大する家康を三成など奉行衆が警戒しているのに気を遣ったものだと思われる」と。
 家康の義久邸訪問はなかったということは高橋氏によって指摘されていますが、義久の家康邸訪問に島津側が神経質になっていたことはこの起請文からうかがえます。しかし、三成が、本当にこのことを問題視していたのかどうかは改めて再検討する必要があるように感じます。秀吉の死後、家康と三成の対立が始まったという捉え方がとかくされますが、その点は私も疑問を持っており、そのあたりも細かく見ていく必要性があるのではないでしょうか。

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