石田三成の実像2703  白峰旬氏「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」11

白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で取り上げられている「厚狭毛利家文書」の六通の毛利輝元書状のうち、光成氏がA文書(46号文書)と呼んでいる書状も、反石田三成訴訟騒動があった慶長4年閏3月のものではなく、翌年の6月上旬の家康による上杉攻め直前の時のものだと推測されています。光成氏の同書でのA文書の最初の部分の現代語訳を前回記しましたが、その後半に次のような文言がありました。
 「『今はよい機会ですので、こちらから仕かけられるのがよいでしょう。そこで、輝元も天馬のように都から下って、陣営を尼崎へ敷き続けるように』と申されました」と。
 この部分について、白峰氏は次のように解説されています。
 「家康が強引に上杉討伐を発動しようとしている状況を見て」、「危機感を持った石田三成は、こちら(=石田三成、小西行長などの方)から(家康に対して軍事行動を)仕掛けるべきである、としている」
 「そのためには、『毛利輝元が「天馬」のように(天から)下り立って、陣取りをして、天【あま】(=空という意味)の先まで(勢いを)持ち続けるように』と石田三成・小西行長・寺沢広高が述べた、としている。
 この文章は、内容としては比喩を示すものであり、毛利輝元を『天馬』に例えている。このことは反家康決起の軍事的中核として毛利輝元を見ていることを示している。そして、この比喩の文が意味するところは、毛利輝元に対して三成たちが自分たちに味方してほしい、という出陣要請をしているのである。このことは、反家康決起の当初の中心人物は石田三成、小西行長などであり、そこに毛利輝元が軍事的中核として加わる、という構図が読み取れる」
 「46号文書には『都から』という文言に該当する記載はないので『都から下って』と現代語訳している点は妥当ではないと思われる」などと。
 白峰氏の見解通り、この書状が上杉攻め直前のものであるとするなら、この時点で三成や行長などが家康に対して決起することを考えており、輝元を中核に据えようとしていたことがわかりますし、実際、それが7月に表面化するわけです。
 書状のこの部分で大事なのは、「あまさき」という文言の解釈であり、尼崎という地名だとする光成説に対して、「天の先」だとするのが白峰説です。このことについては、白峰氏が詳細に論じられていますので、後述しますが、七将による襲撃を受けそうになった三成が尼崎に陣を張った輝元らと結んで、反撃しようとしていたという光成説をそのまま信じていた研究者や一般人は少なくなかったはずで、私もその一人でした。

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