石田三成の実像2753 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」27  第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」7

 白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の、 第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」の中で、慶長5年8月29日付の保科正光書状が取り上げられており、その内容について大事だと思われる点について触れています。
 書状の中に、「大垣(城)に籠っている軍勢が二万余いる、とのことなので、(大垣城のような)小城にて、そのような(数の)軍勢が立て籠もっていては、すぐに詰まる(=いっぱいになる)だろうと思う」という記述があることは前述しましたが、この記述について、白峰氏の同書ではさらに続いて次のように解説されています。
 「大垣城を攻撃している家康方の軍勢が七万人であるから、攻城側七万人対籠城側二万余という対比になることを示している。つまり、この時点で大垣城周辺に展開する両陣営の兵力差にはかなりの差があり、攻城側兵力数が籠城側兵力数の3・5倍であったことがわかる」
 「小城である大垣城に収容能力を超える人数(二万人余)が籠城しているため、籠城側にとってかえって不利になる、という見通しを述べたものであろう。
 結果的には、石田三成をはじめとした籠城側の諸将は大垣城から出て、関ヶ原(山中)で家康方の諸将に決戦を挑むことになるのであるが、籠城側の諸将が長期間の籠城戦をせず、なぜ大垣城から出て、野戦で決着をつけようとしたのかを考えるうえで、保科正光による上記の指摘は重要なヒントになるだろう」と。
 「小城である大垣城に収容能力を超える人数(二万人余)が籠城しているため、籠城側にとってかえって不利になる」ということが、三成方軍勢が関ヶ原方面に移動することになったのではないかという推定は、確かに重大な面を含んでいます。三成方が家康に関ヶ原方面におびき出されたという通説がおかしいことはかねてから指摘されており、あくまで三成方の独自の判断によって移動したということは最近よく言われますし、その通りだと思います。松尾山に動きの怪しい小早川秀秋が陣取ったために、三成が秀秋を牽制しに関ヶ原へ移動したという中井俊一郎氏の見解もあり、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でもその説を紹介しましたが、中井氏自身が、最近、その見解に疑問を持っていることをブログ、及び2日に米原の観音寺で行われた講演会で述べておられました(講演会の内容については後述します)。
 そもそも、秀秋が本当に松尾山に布陣したのかどうかも含めて、根本的に見直す必要が生じている今、移動の原因をもう一度検討し直すべきだと思います。白峰氏は、後詰だった南宮山の軍勢に対して、さらにその後詰として関ヶ原方面(山中)に移動したという説を唱えられていますが、その説も考えに入れて三成方に本当はどういう事情があったのか、再検討する必要性を感じます。

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