石田三成の実像2756 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」29  第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」9 佐竹・上杉の関東出兵を想定

白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の、 第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」の中で、慶長5年8月29日付の保科正光書状が取り上げられており、その内容について大事だと思われる点について触れています。
 書状の中に佐竹義宣・上杉景勝が攻めてくる場合のことについて、次のような記述があります。
 「佐竹義宣より軍勢を『たふたふ』(=手ごたえがない、という意味ヵ)と出してくれば安堵(する気持ちである)。たとえ、(佐竹義宣から)軍勢を出してきても五百から千の間であれば、ただ時の首尾(=その時の成り行き)ばかりであると思うように、毛利(秀元)さえ後(詰ヵ)を引くというのであれば、佐竹義宣・上杉景勝も少しは手出しをするのではないか、と思うように」と。
 この部分の記述について、白峰氏の同書では次のように解説されています。
 「佐竹義宣が関東に出兵してきた場合の具体的規模を想定したものである。具体的人数として、五百から千人程度の出兵であれば、『時之首尾』(=その時の成り行き、という意味であろう)である、としているので、この程度の出兵であれば、大したことはない、と考えているのであろう」
 「佐竹義宣・上杉景勝による関東への出兵が、小規模にとどまる可能性を示唆したものである。徳川家家臣である保科正光が、佐竹氏・上杉氏による関東出兵の可能性をまったく否定していなかった、という点で、こうした認識を持っていたことには注意したい」と。
 佐竹義宣の出兵があったとしても、「小規模にとどまる」と、家康方が見ている点について、家康方は佐竹家が一枚岩になっていないことを承知していたからではないでしょうか。佐竹家がまとまっていないことについて、森木悠介氏の「コラム 佐竹氏と関ヶ原合戦」(谷口央氏編『関ヶ原合戦の深層』【高志書院】)の中で、次のように指摘されています。
 義宣の父の義重は、隠居した後も「徳川氏と音信を通じており」、「石田三成襲撃事件の直後に徳川秀忠に音信していることが確認できる」「これは義宣が三成へ傾倒していくことを危惧したためではないだろうか」
 佐竹(東)義久は「豊臣姓を与えられるなど豊臣政権と直接的な関わりを持っており」「徳川氏にとっても佐竹氏外交の窓口の一人であることが窺える」
 蘆名盛重は「会津上杉氏討伐は会津復帰の好機であり」、「佐竹氏内部での徳川派と言えるのではないか」
 「岩城氏は上杉氏と対立する伊達氏に好意的な態度を取り、伊達氏側も岩城氏と協力する姿勢を見せている」などと。

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