石田三成の実像2760 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」31 大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」11 佐竹氏が関東に攻め込まなかったりゆうに関する森木悠介氏の見解

 白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の 第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」の中で、慶長5年8月29日付の保科正光書状が取り上げられており、その内容について大事だと思われる点について触れてきましたが、これまで紹介してきたものは、「浜松城にいる保科正光が、江戸にいる家臣の黒河内長三に宛てた書状」ですが、もう一通同日付で「国許の多胡(下総国)に留守居」していた「松沢喜右衛門尉・丸山半右衛門尉・吉川織部佑に宛て」た書状があり、その書状についても言及されています。
 まず「国許の多胡において変わった様子がないことについて安心した、と記している」ことについて、「保科正光は佐竹義宣・上杉景勝が共闘して関東に出兵してくる可能性を危惧していたので、そうしたことへの警戒感から記している、と考えるべきであろう」と指摘されています。
 結果的に、佐竹氏は関東に攻め込まなかったわけですが、その理由について、森木悠介氏の「【コラム】佐竹氏と関ヶ原合戦」(谷口央氏編『関ヶ原合戦の深層』【高志書院】所収)の中で、次のように指摘されています。
 「佐竹一派を上回る上杉、徳川氏という大勢力に挟まれた位置という地理的理由、協定を結んだところで上杉軍の協力がない限り、佐竹一派の兵力だけでは関東に残る東軍勢力に対抗できないという軍事的理由も理由も当然あっただろう。しかし、何よりも、三成の恩義を裏切れない義宣、義宣に同調する相馬氏、徳川氏と誼を通じる蘆名盛重、上杉氏と対立する伊達氏に好意的な岩城氏など佐竹一派の中での足並みの乱れという内部的理由があった。毛利・島津氏など、意思決定に強い影響力を持つ一族・重臣がいる大名が(毛利氏における安国寺恵瓊・吉川広家、島津氏における島津義久)、意見の不一致により家中挙げて西軍を支援することができなかったように、佐竹氏も彼らと似たような状態に陥っていたのである」と。
 島津義久は豊臣政権に距離を置いており、三成も義久に対して横柄な態度を取っていたということがよく言われますが、中井俊一郎氏の講演会「書状から読み解く三成の人間力」の中で、天正17年11月25日付の島津義久・御内宛三成書状が取り上げられ、三成が島津義久や義久夫人のことをかなり気遣っていることが指摘されていました。この年、秀吉による九州攻めが行われ、義久は降伏し、義久は上京しますが、その時、案内役を務めたのは三成であり、義久を歓待しています。むろん、三成は島津家の取次として、島津家の豊臣大名化を進めて、大名基盤の強化に努めますが、島津家の経営は危機的な状況にあり、島津家の存続を図ろうとして、三成は苦労しています。義久が豊臣政権に本当に距離を置いていたかは、改めて検討を加える必要があるのではないでしょうか。

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