石田三成の実像2763 中井俊一郎氏の講演「三成研究最前線 主に三成最期の500日に関して」5 関ヶ原合戦での論点 

2日に米原市観音寺の三成ブックカフェで行われた中井俊一郎氏の講演「三成研究最前線 主に三成最期の500日に関して」の中で、関ヶ原合戦についての論点についてもいろいろ挙げられていました。
 まず西軍の首謀者は三成ではなく、名実ともに毛利輝元とする指摘があり、研究者の間ではそれが主流になっていると説明されていました。しかし、西軍の構成が三成との人的つながりを中心としたものになっていること、奉行衆と三成との同盟を主導したのは三成であること、七将事件で三成が標的とされた理由などから、三成が中心人物ではなかったかという指摘がされていました。白峰旬氏が、三成が戦後構想を持っていたことなどから、三成が中心人物であるとの見解を示しておられることにも触れられていました。こういう白峰氏の見解は、拙ブログでも以前に紹介しましたが、「新視点 関ヶ原合戦」(平凡社)の中で、8月上旬に記した三成書状から、次のように記されています。
 「石田三成は戦後構想として、家康の領国である関東を制圧したのち、慶長5年(1600)暮から翌6年(1601)春にかけて、関東の仕置のため、西国諸将の軍勢を関東に遣わす予定であったことや、上杉景勝(会津若松城主)をもとの領国であった越後国へ移封する、という構想を立てててた」と。
 また中井氏も触れられていましたが、光成準司氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)の中で、七将による石田襲撃事件の時のものだとされる6通の毛利輝元書状のうち、4通は翌年の家康による上杉攻め前後の時の書状のものであり、それを見ると、危機感を持った三成や小西行長が反家康決起の当初の中心人物だったと白峰氏は指摘されています。このことも以前に拙ブログにも記しましたが、白峰氏の論考「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で詳しく論じられています。
 中井氏の講演では、「関ヶ原合戦の実相についても、様々な見解が出ているが、周囲の状況から自然な解釈になっているかを評価すべき」と述べられていました。
 関ヶ原合戦の実相については、後の意見交換の場で、白峰氏の新見解を私の方から紹介させていただきました。すなわち、主戦場は関ヶ原ではなく、山中であること、早朝にまず関ヶ原表で、大谷吉継が家康方軍勢と小早川秀秋隊に挟撃され、その後、午前10時頃、山中に布陣していた三成らの主力部隊が家康方軍勢に攻められ、正午ごろには壊滅したと。三成の陣跡が、通説になっている笹尾山ではなく、山中の自害が峰であるという高橋陽介氏の見解についても述べたかったのですが、限られた時間の中で、そこまでは触れられませんでした。
 

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