石田三成の実像2766 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」33 大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」13 攻城戦開始、京勢という記述

白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の、 第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」の中で、慶長5年8月29日付で、家臣の松沢喜右衛門尉・丸山半右衛門尉・吉川織部佑に宛てた保科正光書状が取り上げられていますが、その内容の続きです。
 この書状について、次のような記載があります(現代語訳)。
 「豊臣公儀の軍勢(『京勢』=具体的には石田三成方の軍勢)はいくさに負け、(家康方の軍勢に)垂井・赤坂を切り取られて(=奪取されて)、それぞれ大垣(城)へ逃れて籠った。よって、家康方の軍勢が(大垣城へ)押し寄せ、去る(8月)26日から激しく攻めた」と。
 この記述についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「つまり、石田三成方の軍勢が大垣城に籠城した理由についてネガティブな意味でとらえているが、この点については、今後、客観的視点から分析する必要がある」
 「このように、8月26日から家康方の軍勢が大垣城に対する攻城戦を開始した、としている点は、前掲の【史料25】の記載と日付が一致する。
 なお、石田三成方の軍勢のことを『京勢』と表記している点は、当時、京都が日本の首都であったことを考慮すると、石田・毛利方の軍勢が豊臣公儀軍であることを徳川サイドの保科正光が認めていたことになり、その意味で注目される記載である」と。
 「前掲の【史料25】」とは、8月29日付で、家臣の黒河内長三に宛てた保科正光書状を指します。
 三成方軍勢にとって、大事な拠点である岐阜城を奪われてしまったのですから、大きな痛手であったことは違いありません。それだから、伊勢方面・北陸方面に展開していた軍勢を美濃方面に来るように促しました。味方らは大垣城に籠らざるをえなかったわけで、そういう意味では家康方軍勢は攻勢に立っていたということは云えます。しかし、「激しく攻めた」としていることについては、誇張された記述だという気がしますし、大垣城包囲網が着々と整えられていたことはあるとしても、実際はどういう状況だったのか、「今後、客観的視点から分析する必要がある」と白峰氏が指摘されておられるのは、その通りだと思います。
 また三成方軍勢を「京勢」と保科が呼んでいる点は、白峰氏の見解通り、豊臣公儀軍と認識している証拠であり、豊臣公儀軍を倒して、家康らがそれに代わる公儀を打ち立てようとしていた表れではないかと私には思われ、関ヶ原合戦に勝利した家康が、わずか3年の間に別の公儀である徳川幕府をすんなりと開けたことにつながっている気がします。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント