石田三成の実像2800 中井俊一郎氏の講演「書状から読み解く三成の人間力」3 真田信幸宛書状2 慶長2年のものと推定される書状

昨年11月3日に三成の生まれ故郷である長浜市石田町で行われた「三成祭」の際の中井俊一郎氏による講演会「書状から読み解く三成の人間力」で、真田信幸宛書状三通が取り上げられていましたが、二通目として8月20日付の書状について解説されていました。
 「(大意訳)先日は書状をいただき、早々に御返事すべきところ、御使者が見られたように路地の途中にて失礼しました。またこのところ御城番にて話すこともできませんでしたが、もはや御城番もあけますので、面拝にてお返事いたします。
 尚尚、このところお話もできず、直にお目にかかりたいものです」と。
 文中、「面拝にてお返事いたします」「直にお目にかかりたい」と記している通り、面会を重視している三成の姿勢がよく表れていると説明されていました。もっとも、講演会の後で、高橋陽介氏とお会いした時、高橋氏は「お会いして話しましょう」という言い方は、家康の書状でもよく見られることであり、常套句だと指摘されていました。このあたりは、実際、どうなのか、他の武将の書状の文言も検討する必要があります。
 この書状については、谷徹也氏編「石田三成発給文書目録稿」の中で、慶長2年のものでないかと推定されています。慶長2年には、三成は専ら上方にいて、奉行としての政務に精を出していましたから、「御城番」が多かったのもうなずけます。もっとも、真田信幸宛の書状に出てくる「御城番」の「城」が、大坂城か伏見城か、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)では確定されていませんが、信幸の屋敷が伏見であったこと、もし三成が大坂城の城番を務めていたとするなら、下城する際は、備前島の自分の屋敷に戻ったはずですから、伏見に会いにいったとは考えにくいのではないでしょうか。二人の書状のやりとりや、「面拝」したのは専ら伏見であったのではないかと思っています。
慶長2年は、慶長の役が始まった年ですが、三成ら奉行衆は渡海せず、代わって福原長尭や熊谷直盛ら目付衆が朝鮮半島に赴き、三成らに現状を報告してきます。慶長の役に関しては、島津家の取次役でもある三成は、島津にいろいろ指示をしていますし、島津の方も三成に状況を報告しています。また三成は他の奉行衆と連署で、田方麦年貢の賦課を命じています。このことに関して、中野氏の同書では、「慶長2年(1597)の夏から、田方の麦についても、収穫の三分の一を領主に収めさせようとするものである。田の裏作となる麦は、本来は課税対象ではなかった」と記されています。農民にとっては、税の負担が大きくなったわけです。こういう書状や掟を発したのは、3月から4月にかけてのことです。5月には、三成は「源平盛衰記」の書写を神竜院梵舜に依頼しており、多忙を極めた中でも、軍記物を読むことに精を出そうとしていたわけです。それは気晴らしだったかもしれず、武将として参考になる書物だったのかもしれず、また教養を高める意味もあったとも考えられます。8月20日過ぎには、信幸と久しぶりに話す時間的な余裕が生まれたのでしょうか。11月から12月にかけて三成は他の奉行衆と豊臣家蔵入地の算用状を作成するなど、また仕事に忙殺されています。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント