京都探訪312 舎人親王が祭神の神足神社・そばの勝竜寺城の土塁、空堀跡・藤孝が改修し、神足屋敷(城)も城内に取り込む

DSCN8414.JPG 山崎の合戦の際、明智光秀が本陣を置いたとされる恵解山古墳から引き返し、勝竜寺城公園を経て、長岡京駅に戻りましたが、その途中、神足(こうたり)神社に寄り、お参りしました。
 神足神社の祭神は、天武天皇の子の舎人(とねり)親王と云われています。舎人親王は「日本書紀」を編纂した人物として有名ですが、淳仁天皇は舎人親王の子です。淳仁天皇は、女帝の孝謙天皇が譲位した後、天皇になりますが、藤原仲麻呂を重用したため、後に仲麻呂(恵美押勝)が乱を起こした時、廃位され、淡路に流されます。天皇の位に就いたのは、孝謙上皇で、同じ人物ながら二度天皇の位に就いたため、称徳天皇と名が変わります。仲麻呂が乱を起こしたのは、孝謙上皇が道鏡を重んじたためですが、仲麻呂も淳仁天皇のもとで専横を極めた人物であり、孝謙・道鏡と淳仁・仲麻呂の権力争いが、仲麻呂の乱を生んだと云えます。
DSCN8407.JPGDSCN8413.JPG 神足神社のすぐそばに、勝竜寺城の土塁と空堀の遺構が残っています。本丸の東北の位置にあたり、土塁の高さは六メートル、空堀の深さは三メートルあります。敵が狭い土橋を渡って攻めてくる時に、土塁から矢で側面攻撃できるようになっており、横矢掛かりと呼ばれています。その状況が現場に立つとよくわかります。
 ここのあたりには、もともと国人の神足氏の屋敷がありましたが、細川藤孝がこの地も勝竜寺城に取り込み、大規模な改修工事を行い、勝竜寺城を強固なものにしました。 勝竜寺城は、本丸、沼田丸、神足屋敷(神足城)を含んだある程度の規模の城であったことがわかります。もっとも、明智光秀が山崎の合戦で敗れた折、勝竜寺城に逃げ込むだけの余地はありましたが、大勢の敗軍を抱え込み、態勢を立て直し反撃するほどの規模の城ではなかったと思われます。また多くの敗残兵が逃亡しましたから、反撃する余裕はなく、光秀も再起をはかろうとして、この城から脱出し、本拠である大津の坂本城へ行こうとしたのでしょう。

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