石田三成の実像2811 番組「英雄たちの選択・立花宗茂」4 中西豪氏・白峰旬氏の「最新研究 江上八院の戦い」9 大津城攻めとの感状・軍忠一見状を比較しての白峰氏の考察

NHKの番組「英雄たちの選択・天下無双の名将・立花宗茂」で、関ヶ原の戦いについて、前述したように、立花勢と龍造寺・鍋島勢との江上八院の戦いについては全く触れられていず、四万の家康方の軍勢に囲まれた柳川城の宗茂が、加藤清正の要請に応じて城を明け渡したと述べられていました。宗茂は自分の命を引き換えにして家臣たちの命を助けたいということを清正に告げたところ、清正は宗茂も家臣たちの命を助けることも約束したと(『立斎旧聞記』)。実際は、このやりとりの前に、江上八院の戦いが行われ、宗茂はこの戦いに敗れ、その後大軍に包囲されたことによって、降伏やむなしという思いに傾いたのでしょう。
  中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「江上八院の戦いについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状」の中で、立花宗茂が発給した、大津城攻めと江上八院の戦いのついての感状・軍忠一見状を比較して次のように指摘されています。
 「①大津城攻めの感状と軍忠一見状、江上八院の戦いの感状と軍忠一見状の四つとも発給されているのは、立花吉左衛門尉、三池伊兵衛尉、立花織部佐の三人のみである、②大津城攻めの感状と江上八院の戦いの感状を両方発給されているのは、11人である(中略)、③大津城攻めの感状を発給された立花家家臣と、江上八院の戦いの感状を発給された立花家家臣は別々の家臣であった傾向が強い(江上八院の戦いの感状を発給された立花家家臣は、大津城攻めには参戦せず[遠征せず]、国許に残っていた家臣が多かったということになる)、などの点が理解できる」と。
 「立花吉左衛門尉、三池伊兵衛尉、立花織部佐」の石高は、白峰氏の研究によると、それぞれ「4000石」、「2150石、あるいは2300石」、「3500石」ですから、いずれも比較的大身の家臣です。5000石の大身家臣として小野和泉守がおり、江上八院の戦いでは奮戦していますが、大津城攻めには参戦せず、留守居役を任されていたのではないでしょうか。
 三成も関ヶ原の戦いの際、佐和山城から大垣城に出陣する時、父の正継、兄の正澄、嫡男の重家などを留守居役として残しています。また大垣城から関ヶ原方面(山中)に移動した時も、福原長尭、垣見一直、熊谷直盛、木村勝正らが留守居役として残りました。しかし、大垣城の場合は、関ヶ原の戦いの敗戦後、籠城していた相良頼房、高橋元種、秋月種長が裏切り、福原らを謀殺し、開城しました。佐和山城も、関ヶ原の戦いの後、家康方の小早川秀秋や田中吉政らによって攻められ、落城しました。城の留守居役がいかに大事だったかがわかりますし、宗茂も信頼していた小野和泉守を留守居役として残し、上方へ出陣していったと思われます。
 
 

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