石田三成の実像2809 番組「英雄たちの選択・立花宗茂」3 中西豪氏・白峰旬氏の「最新研究 江上八院の戦い」8 立花宗茂発給の軍忠一見状に関する白峰氏の考察4

NHKの番組「英雄たちの選択・天下無双の名将・立花宗茂」で、関ヶ原の戦いについて、従来通りの捉え方がされていました。すなわち、緒戦は一進一退の攻防が続いていたが、三成方でありながら傍観していた小早川秀秋隊一万五千人が裏切り、勝敗が決したと。これについては、拙ブログで何度も取り上げているように、白峰旬氏は、秀秋は最初から裏切り、関ヶ原表に陣していた大谷吉継を早朝に家康方軍勢と挟撃して壊滅させ、その後、山中に布陣していた三成ら主力部隊を二時間程で壊滅させたと主張されています。
  中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「江上八院の戦いについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状」の中で、立花宗茂が発給した、江上八院の戦いのついての軍忠一見状の「与力・被官・中間」などの記載について分析され、次のように指摘されています。
「つまり、立花宗茂ー家臣(小野和泉守)ー与力ー被官という関係になり、立花宗茂から見て与力は又家来(陪臣)になるので、被官はさらにその従者ということになり、そのため軍忠一見状(江上八院の戦い)では被官の名前が記されていない、と考えられる」「与力とは馬に乗ることができる身分の武士であるので、戦いでは騎乗の与力と、その下で馬に乗らず徒歩(かち)で戦う被官という関係になったのであろう」と。
 文中に「小野和泉守」とあるのは、「被疵」の内訳が記載されている五例の軍忠一見状の与力はいずれも五千石の「小野和泉守」の与力だからです。
 「150石クラスの小身家臣の場合は、中間のみを引き連れて参戦したのだろう」こと、「300石クラスの小身家臣でも被官がいたこと」も指摘されています。また宗茂発給の感状に、被官は「名字も記されているので、被官は武士身分であることがわかる」とも記されており、「与力・被官」は武士身分であるものの、宗茂自身の直接の家臣ではなかったわけです。
 関ヶ原の戦いの三成隊も、家臣が与力や被官、中間を引き連れて戦ったのでしょうし、他の参戦武将たちも同じだったはずです。しかし、三成方は敗者になったために、彼らの与力、被官、中間などについて記されていたものはほとんど残っていず、未開拓の研究分野になっているのではないでしょうか。
 

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