石田三成の実像2838 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」4 「名古屋陣之図」 三成の陣替が行われたとする中井俊一郎氏の見解

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の中で、佐賀県立名護屋城博物館蔵の「名古屋陣之図」が掲載され、次のように解説されています。
 「名護屋城の周辺には、大陸出兵に動員された多くの大名たちの陣屋が所在していた。江戸時代以降になると、諸大名の陣屋を考証し、位置関係を描きこんだ絵図が好事家や学者の手で数多く作成され、本資料はそのうちの一点にあたる。近年、こうした大名陣屋跡については発掘調査や整備が進められており、庭園や茶室などの文化施設を備える、完成度の高いものであったことが、遺構などから明らかとされている」と。
 この図は江戸時代後期に描かれたものですが、三成の陣屋までは描かれていません。通説では、三成の陣屋は名護屋城からかなり離れた野元という場所に置かれていたとされていますから、この図からは外れてしまっています。もっとも、文禄の役では、秀吉の代わりに大谷吉継・増田長盛と共に奉行として渡海しましたから、このような離れた場所に、重要な役割を果たした三成の陣があったとは考えにくいものがあります。このことについて、中井俊一郎氏は三成の陣替が行われたという見解をかねてより唱えられています。そのことはオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の中で、詳しく論じられています。
 すなわち、最初、「三成の陣場は名護屋城の北方・波戸岬にあったと推定される」と。その根拠として、佐竹家の被官である平塚滝俊の書状の次の記述が挙げられています。
 「当家の陣所の北側の峰に石田殿の陣所があります。一人涼しい地形にあります。前の方の峰に大谷吉継殿の陣所です。その前には上杉景勝殿の陣があります」と。
 この三成の陣所があった場所は、現在、生駒親正の陣所とされているところだとも記されています。さらに三成の陣替が行われた理由について、もともと三成が朝鮮出兵に反対だったことや朝鮮半島にわたって悲惨な戦争の現状を目にして講和を整えようとしたものの、失敗したことで、秀吉によって朝鮮の役の主役から降ろされたかもしれず、そういう者には名護屋城の有利な場所は必要なく、陣替が行われたのではないかと指摘されています。
 もっとも、三成はそれで失脚したわけではなく、それ以後、奉行として国内の重要な仕事に、政権中枢として関わっています。秀吉は三成のそういう能力や力量を高く評価していたのでしょう。

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