石田三成の実像2904 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」30 天正20年10月2日付の小早川秀秋宛豊臣秀吉朱印状

徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、小早川氏に関係したものとして、天正20年(1592)10月2日付の小早川秀秋宛豊臣秀吉朱印状が掲載されており、次のように解説されています。
「『唐入り』が進行する天正20年(1592)、当時丹波中納言と呼ばれていた秀秋に宛てられた秀吉の朱印状。その中身は極めて日常的なもので、学問に励むように、お歯黒をつけるようにといった、親愛の情が込められた小言のような内容である。これらの言いつけを破った際の罰が、『御中(仲)をたかはる(違わる)へき』、つまり仲良くしないというのも微笑ましい。当時11歳の秀秋が、いかに秀吉から可愛がられていたかがうかがい知れよう。秀秋は翌文禄2年(1593)になって、肥前名護屋まで下向するが、結局文禄出兵では渡海しなかった」と。
 この書状が書かれた時点で、秀吉の子の秀頼はまだ生まれていませんでしたから、秀吉は秀秋をわが子のように可愛がっていたわけです。この時、三成は朝鮮半島に渡って漢城にいました。7月16日に着き、その年はずっと漢城にいて、奉行としての任務に当たっていました。秀秋は文禄の役では渡海しませんでしたが、慶長の役では総大将としての地位を与えられて、朝鮮半島に渡っています。一方、三成は慶長の役の際には渡海せず、国内の政務に奔走しています。
 拙ブログでも前述したように、この図録には、天正20年(1592)5月18日付の豊臣秀次宛豊臣秀吉朱印状が掲載されており、その中で後陽成天皇を北京に動座させるというとんでもない無謀な計画が述べられていますが、秀次は「大唐の関白職」に、日本の関白には、豊臣秀保か宇喜多秀家が就き、朝鮮は最終的には豊臣秀勝か宇喜多秀家、九州には秀秋が入るように記されています。いずれの書状も、秀吉が豊臣一門としての秀秋に期待をかけていたかがよくわかります。
 むろん、5月18日と10月2日とでは、朝鮮状況は大きく異なっています。5月の時点では、日本軍は漢城を落とし、破竹の勢いで各地を侵略していきましたが、そののち至るところで義兵が蜂起し、食糧事情も悪くなり、統治するのが難しい状況になっていきました。制海権も李舜臣ら朝鮮水軍に奪われたままでした。これも拙ブログで前述したように、この図録には、増田長盛・大谷吉継・石田三成の三奉行連署状案が掲載されており、その書状には、戦線が延びきって、このままでは、兵站が続かず、日本人は一人もいなくなってしまうだろうという、悲観的な見通しが述べられています。この書状案が記された時期について、これも前述したように、この図録の解説文には、7月から8月にかけてのものだと推定されています。そうだとすれば、三成らが漢城に入ってまもなくのことになり、すでにこの段階で、三成らはこの戦いの悲惨な実態をよくわかっていたことになります。三成らがこの後、和平の方向に向かってゆくのは当然のなりゆきで、それは正しい選択だったと云えます。 

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