石田三成の実像2951 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」23 本間宏氏「上杉景勝の戦い」3 神指城築城は数年計画・兼続と三成の密約説否定・しかし本当になかったのか?

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長5年2月に、上杉景勝が若松城(鶴ヶ城
)の北西に、面積が約二倍になる、新たな居城の神指(こうざし)城を構築し始めたことに関して、次のように記されています。
 「発掘調査の結果、堀の掘削はきわめて不十分で、必然的に土塁も未完成とみなされることや、本格的な石垣づくりの居城を志向していたことなどが判明した。冬季の築城が困難であるという地理的条件を加味すると、数ヶ年以上に及ぶ計画で構想された築城だったことが確実となった(本間 2009)。この築城は風雲急を告げる慶長5年6月9日まで続けられ、未完のまま中断された。こうした事実は、前年から石田三成と直江兼続との間に家康挟撃の密約があったとする逸話を否定し、家康軍と戦うため急ピッチで築城が行われたとする見方をも完全に否定するものである」と。
 要するに、発掘調査からすれば、上杉景勝は長期計画を立てて、新しい居城を作ろうとしていたわけで、すぐの戦いは想定していなかったことになります。三成と兼続との家康挟撃策も否定されているわけですが、上杉景勝・直江兼続と三成の関係が良好であり親密だったことは確かであり、上杉氏が家康に売られた喧嘩を買って出たのも、反家康派の三成らが自分に味方してくれると踏んでいたからではないでしょうか。上杉氏が自分らだけで、家康に味方する大軍を迎え撃てるとは思っていなかったでしょう。三成たちも、こんなに早く家康が上杉氏に矛先を向けてくるとは思っていなかったかもしれません。上杉氏自身も数年先の戦いを想定して、神指城を作ろうとしていた可能性もあります。将来のことを見越して、兼続と三成との間に反家康の密約が結ばれていたことも考えられます。それが予想外に早く、家康が上杉氏に仕掛けてきたのかもしれず、家康が早くに会津攻めを実行したために、三成らが急いで挙兵したということもありえます。三成たちも上杉氏を見捨てることはできませんでしたし、家康が豊臣公儀を牛耳り、横暴な振る舞いをするのを三成らは見過ごすことはできなかったため、挙兵して、白峰旬氏の主張されるように、家康を排除した二大老・四奉行体制による新たな豊臣公儀を樹立したわけです。
 白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、三成の次女が上杉氏の家臣である岡半兵衛に嫁いだことが、三成と兼続の密約を物語る証と指摘されていますが、密約を結んだということまでは云えないとしても、三成と上杉氏とが並々ならぬ密接な関係であったことを示すものであるのは確かです。三成の次女が岡半兵衛に嫁いだのは、慶長4年のことだと白峰氏は主張されています。すなわち、兼続が上方から会津に帰国した時、兼続は三成の次女を伴って岡半兵衛に嫁がせたと。確かに、婚姻の時期としては、その時しかないというのはうなずけます。

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