石田三成の実像2980 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」30 本間宏氏「上杉景勝の戦い」10 伊達政宗による白石城攻略 佐藤貴治氏「伊達政宗の戦い」1 政宗と三成との交流

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、家康の会津攻め中止の報を受け取った伊達政宗のその直後の動きについて、次のように記されています。
 「家康からの一報が、最上義光を経由して伊達政宗に届いたのは8月3日であった。家康の方針転換を知らなかった伊達政宗は、7月24日に家康に無断のまま白石城(刈田郡)と河俣城(伊達郡川俣)を同時攻撃した。伊達氏にとって、自領と接しない河俣を奪取するメリットはない。河俣攻撃は、上杉勢の注意を河俣に惹き付けることにより、白石城への上杉方の援軍を断つことを目的としていた。(中略)
 河俣との同時攻撃が効を奏し、翌25日に伊達政宗は白石城の攻略に成功した。直江兼続は、自身直属の家臣に宛てた7月27日付自筆書状のなかで、景勝から白石救援の命が下ったことを伝えている(松尾 2016)」と。
 伊達政宗の会津侵攻にかける並々ならぬ意欲が伝わってきますが、政宗は秀吉の北条攻めの際、小田原参陣が遅れたため、所領を大幅に削られます。政宗は、家康による会津攻めをきっかけとして、旧領を回復しように思っていたことがうかがえます。家康による会津攻めの時点で、伊達政宗は岩出山城を居城にしていました。旧大崎・葛西領で一揆が起こった際、政宗は一揆を扇動したとの疑いがかけられましたが、一応その疑いは晴れたものの、政宗は秀吉によって米沢城から岩出山城へ転封となりました。
 伊達政宗と三成の関係について、従来は仲が悪かったということが通説となっていますが、佐藤貴治氏の「伊達政宗の戦い」で、必ずしもそうではなかったという見解が次のように示されています。
 「そもそも三成は、政宗と敵対関係にあった蘆名、佐竹、相馬氏らと親しく、政宗にとってはあまり好ましい人物ではなかったが、三成が豊臣政権を主導していくようになるなかで、政宗も三成との関係を強化せざるをえない状況になっていた。政宗は家康との関係が強く、関ヶ原合戦の際に家康陣営に行くのは自明の理のように考えられがちだが、政宗が三成とも関係を構築していたことは注目しておく必要がある」と。
 具体的には、次のようなことが記されています。
 「政宗は三成と没交渉だったわけではない。小林清治氏は政宗と三成との間に交流があったことを指摘している(小林 2008)。秀吉が没する前の7月21日付で政宗が石田三成に送った書状の写しには、不仲の人間同士であっても、仲直りして皆で秀頼に仕えることを秀吉が命じたことなどが記されている(『諸家所蔵文書写』)」
 上記の「不仲の人間同士」とは、この場合、政宗とその取次役を務めた浅野長政を指し、実際、政宗は以前に長政に絶縁状を送っています。上記の書状で、長政とは「秀吉の意向だから一応は仲直りするけれども、いろいろと言いたいことがあるから、三成と話をしたいと伝えている」と述べられています。秀吉の遺命に背いた家康の婚姻が問題になった直後の慶長4年2月9日に、三成が開いた茶会に伊達政宗も招かれていることからみても、三成と政宗の関係がそれほど悪くなかったことがうかがえます。

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