石田三成の実像2979 番組「決戦!関ケ原 『空からスクープ 幻の巨大山城』」2 松尾山城の布陣の仕方で小早川秀秋が裏切りを準備していたことがわかる

 番組「決戦!関ケ原 『空からスクープ 幻の巨大山城』」では、小早川秀秋が布陣したとされる松尾山にも、千田嘉博氏が登ってその遺稿を確認し、次のような見解を示されていました。尾根を平らに削り取って、陣小屋を建てて大軍を配備していたこと、しかし、不可解なことに、陣小屋があるのは切岸の外側であり、守りを考えるなら普通は切岸の内側に布陣するはずだということ、松尾山城は関ヶ原の方に攻め出す造りになっていなかったのに、関ヶ原の方に降りてゆくという布陣にしたのは、秀秋の裏切ろうとしていたという決定的な証拠であること。
 こういうことから、通説では、秀秋は戦いの土壇場で家康側に寝返ったと考えられたものの、実際は、秀秋は戦いの始まる前から三成方を攻撃する準備をしてきたことがわかると番組ではまとめられていました。
 もっとも、番組では小早川秀秋の裏切りには、北政所のことが関わっているとの見解が示されており、それには納得できかねるものがありました。秀秋は、三成ら豊臣公儀方に加わろうとしていたものの、負けた場合、北政所に累が及ぶので、葛藤していたこと、それに対して北政所は自分のことはよいから、秀秋によくよく見極めることだとアドバイスしていたというふうに描かれていました。しかし、これでは北政所が家康方に付くことを示唆しているように取れます。北政所が家康派だとは言っていないものの、従来からの通説に影響された見方のように思われます。北政所が三成らを支持していたことを最初に主張されたのは、白川亨氏ですが、北政所に仕えている東殿が、大谷吉継の母であったことや、大津城の開城交渉を、やはり北政所に仕えていた孝蔵主が使者として行っていること、第一、秀秋の兄弟たちはほとんどが三成方に付いていることなどが挙げられています。
 番組では、秀秋の弱みにつけ込んで、黒田長政が北政所の名を出して裏切りを促している秀秋宛の黒田長政書状が取り上げられ、「われらは北政所様にこれからもお尽くししていきたいと願っている」「家康公が到着するまでに寝返りを決断せよ」という文言が紹介されていました。しかし、それは北政所がさも自分たちの味方であるかのように強調するものであり、事実とは限りません。豊臣公儀側も「内府ちかひの条々」を発した際、家康の罪状として、北政所を大坂城西の丸から追い出したことを挙げていますが、大義名分を掲げるために北政所の名は使われた可能性があります。関ヶ原の戦いで豊臣公儀方が敗れた際、北政所は慌てて御所の中に逃げ込んでいます。
 番組では、淀殿も北政所も三成方を積極的に支援することはなかったというふうに捉えていました(外岡慎一郎氏の見解もそうでした)が、秀頼を出陣させなかったという点はそうだとしても、大津城開城においては、北政所だけではなく、淀殿も使者を出して交渉に当たっています。この件において、北政所と淀殿は連携していたという見解を跡部信氏は唱えられています。これはあくまで、毛利・石田らの新たな豊臣政権側の意向に沿った動きでした。むろん、大津城主の京極高次の妻が、淀殿の妹のお初だったという事情もありましたが。
 

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