石田三成の実像2982 番組「決戦!関ケ原 『空からスクープ 幻の巨大山城』」3 大谷吉継が松尾山の麓に布陣した痕跡・小早川の裏切りは途中から?

 番組「決戦!関ケ原 『空からスクープ 幻の巨大山城』」の中で、小早川秀秋の裏切りを察知した大谷吉継は、松尾山の麓に布陣したという説が出されていました。その根拠となるのは、やはり赤色立体図であり、千田嘉博氏は、その陣跡を実際に探索し、急ごしらえで作った堀の跡などを確認されていました。
 番組で関ヶ原の戦いの経緯は、家康方軍勢がまず、松尾山の近くに布陣していた最前線の大谷吉継の隊に襲いかかり、次に山中の玉城に布陣していた三成らを攻めている時に、小早川秀秋が裏切ったというふうに説明されていました。
 これは、白峰旬氏の見解とは異なるものです。小早川秀秋は最初から裏切っており、大谷吉継隊は家康方軍勢と小早川隊に挟撃され壊滅し、次に家康方軍勢は山中に布陣していた三成方の主力部隊に襲いかかって壊滅したというのが白峰説です。
 番組に出演されていた小和田哲男氏は、小早川秀秋は戦いの様子を見ていて、家康方が有利だと判断して、三成方を裏切ったという通説を支持されていましたから、番組もその見解を取り入れたものになっていたのかもしれません。松尾山の陣小屋が、切岸の外側に作られていたということに関しても、小早川は裏切りを準備していたという千田氏の見解に対して、小早川隊は1万5000人もいたから、そういうところに陣小屋を作るのは当然で、それだけで裏切りの証拠だとは云えないと小和田氏は主張されていました。
 小和田氏は三成方の布陣場所として、従来通り、三成は笹尾山、小西行長は北天満山、宇喜多秀家は南天満山のままでよいという見解を述べられていました。しかし、赤色立体図では、笹尾山や北天満山、南天満山には、陣跡らしきものはないということが番組で明らかにされていました。拙ブログでも以前に触れたように、今の関ヶ原の陣跡は、明治時代に役人らによって定められたものであり、歴史的根拠はないこと、笹尾山からは戦いが行われたことを示すものは何も発掘されていないことなどを指摘されています。
 赤色立体図からも、一次史料などの分析からも、千田氏、白峰氏や高橋氏の見解の方に分がある気がしますが、番組での関ヶ原の戦いの描き方が中途半端なものになってしまったのは、先ほど言ったように、小和田哲男氏との見解の相違が影響しているのでしょう。
 番組では、三成方が秀頼の出陣を待ち望んでいたものの、それが実現しなかったために、三成方は負けたというふうに説明されていましたが、玉城に布陣した時点で、秀頼らが来てくれることは頼みにしていなかったでしょうから、なぜ負けたのかという点については、改めて考える必要があると思います。三成方の兵力数が通説で言われているよりもずっと少なかったと言うことを白峰氏は指摘されていますが、そこに小早川秀秋らの裏切りがあり、さらに南宮山の毛利勢が動かなかったのですから、完全に目算が狂ったということは考えられます。 

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