石田三成の実像3001 白峰旬氏「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」16 家康側が不利な状況で焦っていた証拠

 白峰旬氏の論考「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」(2020年発行『別府大学紀要』第61号所載)の中で、第31条の「金や代物【しろもの】(=金銭に代わる品物)がどれほど必要であっても言って欲しい。どれほどでも出すつもりである」と現代語訳されている部分について次のように解説されています。
 「家康から山村良勝・千村良重に対する資金面での供与を示している。このことは、上述した、家康からの鉄炮・玉薬(=火薬)の供与と同様に東美濃への侵攻も視野に入れてのことと思われる」と。
 第33条の「家康のお考えとしては、あなたたち(=山村良勝・千村良重)をその他(=木曽谷)へ遣わして」と現代語訳されている部分について、「木曽谷へ山村良勝・千村良重を遣わしたことが家康の考えであったことを明示している」と解説されています。
 木曽谷へ山村良勝・千村良重を遣わし、資金面での供与もしたのが家康の意思であり、家康は東美濃への侵攻も視野に入れていたことがわかりますが、この時点になると、家康は自分に味方する武将たちを西上させて積極的な軍事行動に出ようとしていたことがわかります。家康は豊臣三奉行が発した「内府ちかひの条々」によって公儀性を奪われ、二大老・四奉行による新たな豊臣公儀が形成されるに及んで、完全に劣勢に立たされ、白峰氏の見解によれば、江戸から動きたくても動けなかったわけですが、家康はなんとか巻き返しをはかろうとして、諸将を東海道からと中山道からとに分けて、侵攻を徐々に進めていたわけです。この書状の後、家康は8月25日、秀忠軍を上田城攻めに向かわせますが、家康自身が江戸を発つのは、岐阜城落城の報を知った直後の9月1日でした。岐阜城が落ちず、味方が有利だという情報が入らなければ、家康は江戸を出ることはなかったかもしれません。もっとも、秀忠の上田城攻めがうまくいき、さらに東美濃まで攻めこむことになれば、家康も重い腰を上げたでしょうが。
 この書状のそれぞれの条文の文末に「可御心安候事」と記されたケースが非常に多いことが指摘され、その理由について、白峰氏は次のように考察されています。
 「これは大久保長安が宛所の山村良勝・千村良重を安心させようと焦っていた証拠ととらえることもできるし、8月21日(この書状の日付)の時点で、それだけ家康サイドが不利だったことの証左ととらえることもできる」と。
 関ヶ原の戦いが家康側の圧倒的勝利に終わったことで、すべてが家康の筋書き通りに進んだととかく思われがちですが、この時点で実際は家康側はなお追い込まれており、必死だったことがこの文言の多さからわかるわけです。

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