石田三成の実像3002 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」37 本間宏氏「上杉景勝の戦い」17 8月25日付の豊臣公儀方への返書

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長5年8月14日に若松城に戻った兼続の動きについて、次のように記されています。
「結城朝勝が仲介した佐竹氏の使者を迎えた。その後、景勝の関東出兵を求める二大老・四奉行(毛利輝元、宇喜多秀家、長束正家、増田長盛、石田三成、前田玄以)の返書案を起草したものと思われる。その内容は、
 
 ①すぐに関東に出兵すべきところだが、思わぬ動きを見せている最上義光と伊達政宗を抑えてから関東に攻め込みたい。
 ②家康が上方に向かう場合は、佐竹と相談のうえ、万事を擲って関東に乱入する。
 ③南部、仙北、由利などの面々からは、秀頼様に御奉公申し上げるとの使者が来ている。
 ④越後の件は、堀氏が家康の一味と思われたので一揆を申し付けたが、秀頼様に忠節をつくすよう仰せ付けられたとのことなので一揆も静まった。溝口と村上は、もともと秀頼様に敵対する意思はなかった。
 ⑤9月中には佐竹と相談して関東への軍事行動を起こしたい。
 
 とするものであった(『8月25日付上杉景勝書状』【長野県宝真田家文書】)。ただ、この返書は沼田道を封鎖した真田信之の手に渡ったとみられ、上方には届かなかった」と。
 この上杉景勝書状が複数書かれた可能性もありますから、書状が上方まで届かなかったとは断言できませんが、信之に奪われたというのは豊臣政権側にとっては大きな痛手であり、沼田はそれだけ上方と奥州をつなぐ重要拠点だったわけです。
 この景勝書状に記されている通り、上杉氏はいずれ関東に攻め込むつもりだったことがわかりますが、それにはまず最上氏と伊達氏を抑える必要があり、さらに佐竹氏とも連携してのことでした。しかし、拙ブログでも触れたように、佐竹氏は一枚岩ではありませんでしたし、佐竹義宣は三成派だったものの、家中には家康派もいましたから、実際のところ上杉氏と共に関東攻めに加わったかどうかわかりません。家康が江戸を出て西上したのは9月1日であり、それが上杉氏の耳に入ったのは、何日かしてからですから、すでに上杉氏は最上攻めに取りかかっていました。上杉氏は家康が動くのをもっと先のこととして考えていたのかもしれません。ともかく、このような状態では、書状にあるように9月中に関東に攻め入ることは実質、無理だったと云えます。
 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 3

かわいい かわいい かわいい

この記事へのコメント