石田三成の実像3006 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」27 漢字表記の極端な少なさ 伏見城、大坂の陣に「御」を付けている意味合い

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、「本城惣右衛門覚書」から得られる知見について提示されていますが、使用されている一般名詞(普通名詞)、一般動詞の表記を表にしてまとめられていますが、それをもとに次のような点が指摘されています。
 「『惣右衛門覚書』では漢字表記が極端に少なく、一般名詞(普通名詞)、一般動詞などいずれもほとんどがひらがな表記であることがわかる。これは、本城惣右衛門自身に教養がなかったため、文章を書くことについて、漢字を知らなかったので、ひらがな表記にせざるをえなかったのであろう。(中略)
 また、地名では、『紀伊国』は『きいのくに』ではなく『きのくに』と当時は読んだことがわかる。『大坂』については『わうさか』と表記しているので、『惣右衛門覚書』においては、『お』を『わ』に置き換えて表記していることがわかる。『惣右衛門覚書』における類例としては、『わうつ伝七郎』(=大津伝七郎)、『わうかた』(=大方)、『わうかたのかず』(=大方の数)がある。(中略)
 なお、『ふしミ御城御ばん』、『大さか御ぢん』というように『御』を付けて表記しているのは、伏見城は豊臣政権の公儀の城郭であり、大坂の陣は私戦ではなく公戦であることによるものと考えられる」と。
 ほとんどがひらがな表記であることについて思い出すのは、ひらがなが多用された秀吉の自筆書状です。秀吉が農民出身で、漢字をあまり知らなかったからだと考えられます。その中でも、秀頼のことを家康ら5人の有力大名に託した、慶長3年8月5日付の遺言書が有名です。宛所は「いへやす」「ちくせん」「てるもと」「かけかつ」「秀いへ」になっています。秀吉は「五人のしゆたのミ申候」(秀頼のことは五人の衆を頼みにする)と記し、さらに「いさい五人の物ニ申わたし候」(委しいことは五人の者に申し渡している)と記しています。この場合、「五人のしゆ」とはいわゆる五大老、「五人の物」とは、三成らいわゆる五奉行のことを指しています。
 「紀伊国屋文左衛門」は、「きのくにや」ですから、当時は「紀伊国」は「きのくに」と読んでいたことはうなずけます。「お」を「わ」と置き換えていたのは、本城惣右衛門だけの特徴、癖みたいものなのか、ある程度一般的なものなのかは、今後、さらに検討する必要があります。
 本城惣右衛門は、伏見城攻めの時は、豊臣公儀側として、大坂の陣の時は徳川公儀側として戦っており、城や陣に「御」を付けているところに、白峰氏が指摘されているように、公戦に参加しているという思いがこもっている気がします。伏見城攻めの場合は、家康側に占領された豊臣政権の城を取り戻すという意識が働いていたのかもしれません。もっとも、関ヶ原の戦いの後、伏見城は再び家康の城になりましたが、後に廃城になるまで、天下人の城という意味合いは変わりありませんでした。

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