大阪探訪48 番組「ニッポン不滅の名城 『大坂城』」2 徳川時代の大坂城は西国支配の拠点・内堀の一部を埋め立て本丸を広くする

 NHKの番組「ニッポン不滅の名城 『大阪城』」で、徳川秀忠が秀吉の大坂城を埋め立てて、新たな大坂城を作った理由について、秀吉の痕跡を消し去るためだけではなく、大坂城を西国支配の軍事拠点とするためでもあり、さらには秀忠が隠居した後、大坂城に住むことも考えていたと城郭考古学者の千田嘉博氏が説明されていました。それを示す小堀遠州の書状が最近発見されたことも紹介されていました。その書状には、「大坂はゆくゆくは(秀忠の)御居城にもなさるべきところ」と記されていると。
 また秀吉時代は、西側の内堀は本丸まで食い込んでいたが、秀忠は堀の一部を埋めて本丸の空間を広くして大量の兵を動員できるようにしたこと、金蔵には幕府の収入の4割が納められていた(今の金額で500億円を保管)こと、焔硝蔵は頑丈で鉄炮が二万挺常備され、大量の火薬が保管されていたこと、石垣には目地漆喰をするなどしてして豪華な装飾が施されていたことなども述べられていました。
 確かに、幕末に、将軍の家茂は大坂城で長州戦争の指揮を取りましたし、また鳥羽・伏見の戦いでも、将軍の慶喜は大坂城に陣取っています。もっとも、慶喜は、幕府軍が敗戦を重ねると兵たちを残したまま、自分だけ勝手に船で江戸に戻ってしまい、その後、大坂城は炎上しています。
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 写真は5年前の、本丸の発掘調査で見つかった豊臣時代の石垣の現地説明会で撮ったものですが、豊臣時代の大坂城の復元図のパネルも立っていました。復元図を見ると、西側の内堀が本丸まで深く食い込んでいることがよくわかります。徳川秀忠はその堀の一部を埋め立てて、本丸を広くしたわけです。
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 写真は現在の城の西側の石垣です。東側の石垣と比ると、高さが低いことがわかります。

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