石田三成の実像3031 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」50 浅野友輔氏「毛利輝元の戦い」1 「お飾り」ではなく「野心家」だった輝元

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、浅野友輔氏の「毛利輝元の戦い」の中で、はじめに輝元「西軍の総大将」像が以前とは塗替わりつつあることが述べられています。
 今までの輝元の評価が芳しくなかったが、それは「輝元が三成らによって祭り上げられた『お飾り』のような総大将だったから、というような見方が根強かったためである」、「関ヶ原の戦いにおいて消極的姿勢で西軍に加担し、家康と三成にのまれ、三成と親しい毛利氏の外交僧安国寺恵瓊にそそのかされ、あれよあれよという間に総大将となって領国を削られた凡将、といったものだった」と記されています。
 三成が家康に対抗する、関ヶ原の戦いという巨大プロジェクトを企画したと主張されたのは堺屋太一氏ですが、そのプロジェクトを成功させるために、大義名分を掲げ、上杉景勝や宇喜多秀家などのスポンサーを獲得し、毛利輝元という象徴的人物を担ぎ出し総大将にしたと論じられています。この見解は、家康対三成という構図に基づいており、三成がいわゆる西軍の中心人物だったという捉え方です。しかし、こういう見方は江戸時代に作られた、すべての責任を三成にかぶせるという考え方に基づいており、三成奸臣説につながっています。むろん、堺屋氏は三成の再評価をされ、そのプロジェクトのプランナーとしての先見の明に注目され、三成を見直すことにつながり、私も教えられることが少なくありませんでした。
 しかし、輝元が担ぎ上げられたという捉え方は今では否定されており、そのことについて、浅野氏の同書では、次のように記されています。
 「そうした輝元像は後の世になってから軍記物などをベースに作り上げられたもので、近年では関ヶ原の戦い当時の史料に基づく人物の再評価が進んでいる(光成 2018ほか)。そこから見えてくるのは、『お飾り』にはほど遠い、独自の思惑で戦いに加担する『野心家』輝元の姿である」と。
 関ヶ原大乱の際、輝元が積極的に動いた「野心家」であったことを、私が初めて知ったのは、光成準治氏の「関ヶ原前夜」によってでした。
光成氏の同書では、毛利氏と三成の関係は、豊臣家七将による三成襲撃事件の際から続いていたこと、輝元は三奉行による「内府ちがひの条々」が発せられるのを見越していたように迅速に大坂城に入っていること、関ヶ原大乱の際は輝元自身は大坂城を動かなかったものの、西国では毛利氏は積極的に動き、他領に侵攻していることなどが記されています。もっとも、三成襲撃事件に関しては、白峰氏が、軍事行動ではなく、三成に対する訴訟騒動であったこと、光成氏の同書で取り上げられているこの事件に関する6通の輝元書状のうち、4通はこの時のものではなく、翌年の関ヶ原大乱前後のものであったことを指摘されています。しかし、光成氏の同書によって、「野心家」輝元の姿が明らかになったのは確かで、それ以来輝元に対するイメージが大きく変わったわけです。

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