石田三成の実像3033 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」51 浅野友輔氏「毛利輝元の戦い」2 四奉行に宛てた輝元の誓約書の原案を作成し、加筆もしたのは三成

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、浅野友輔氏の「毛利輝元の戦い」の中で、秀吉の死の直後、家康と三成ら五奉行の間に対立があったことが記されていますが、その対立の根深さを克明に伝えるものとして、8月28日付の浅野長政以外の四奉行に宛てた輝元の誓約書が挙げられています。この誓約書については、光成準治氏の先行研究があるとことわった上で、次のように記されています。
 「内容は秀吉後継の秀頼に対して忠誠を尽くすというもので、本文の一部に三成の手によって加筆訂正がなされた形跡がみられる。三成が手を加えたのは、『いかなる動乱があっても、秀頼様の家臣ともに、秀頼様に忠誠を尽くす』という部分だ。三成はこの一文を、『何かしらの動乱があって、五人の奉行(=五大老)のうち、秀頼様には逆らっていなくても、三成ら四人の奉行衆と対立した場合、われら(=輝元ら五大老)は四人の奉行衆と相談して秀頼様に従う』と書き換えている。
 この誓約書が毛利家のもとに残っていることを考えると、輝元は誓約書の文面を一旦三成のもとに送り、それに三成が目を通して輝元に返却したのだろう。つまり、輝元は三成らとの間で意思疎通を図ると同時に、彼らに反目しないよう釘を刺されていたのである」と。
 この誓約書(起請文)については、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、原案と訂正後の原文、及びそれぞれの現代語訳が掲載されており、「この起請文は秀頼に対する忠誠を誓うものであったが、その末尾には『右け(消)したる分、はし(初)めの案、かた付は治少(治部少輔)より也』とあり、実は三成の手によって原案がしたためられ、さらに加筆までも行なわれたことがわかる」と記されています。
 加筆だけでなく、原案も三成が作成し、終始、三成主導でこの起請文が作られていたわけです。
 中野氏の同書には、この起請文について次のように解説されています。
 「加筆された表現に従えば、秀頼を頂く政権の中枢には三成らが位置づけられ、いわゆる『大老』はその意をうけて政務を執行する存在となる。すなわち、家康・利家らは政権のいわば『手足』であり、したがって彼らは『奉行』と評されている。いずれにしろ、この起請文は、大老のうちに増田長盛・石田三成らと意見を異にする者があれば、毛利輝元が三成らと協力してそれを排除することを約したものとなっている。さらに踏み込んで解釈すると、増田長盛・石田三成らと意見を異にする可能性を有する存在とは徳川家康であろう」と。
 大老が「奉行」と呼ばれていたこともわかりますが、通説で言われるように五大老・五奉行の間に上下関係があったわけではなく、対等の関係であったことがわかります。このことについては、白峰旬氏が「十六・七世紀イエズス会日本報告集」の記述から、「五大老を牽制する目的で秀吉が五奉行を任命したことからすると、五大老・五奉行は基本的に同格であり、五大老・五奉行の10名は同様の立場から国家全体の統治に関与した、と見なすことができよう」と指摘されています。
 

 

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