石田三成の実像3035 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」52 浅野友輔氏「毛利輝元の戦い」3 秀吉没後の家康と奉行衆との対立を示す毛利家家臣の書状・毛利家の仲介の際に活躍した安国寺恵瓊

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、浅野友輔氏の「毛利輝元の戦い」の中で、秀吉の死の直後、家康と三成ら奉行衆の間に対立があったことが記されていますが、その対立の根深さを克明に伝えるものとして、8月28日付の浅野長政以外の四奉行に宛てた輝元の誓約書状の他に、9月2日付の毛利家家臣の書状が挙げられ、次のように記されています。
 「手紙のなかでは『太閤様(秀吉)が存命中に確約させたことは、もう破られてしまった』と、事態の悪化が嘆かれている(『萩藩閥閲録』)」と。
 この書状は、輝元の重臣内藤周竹(隆春)が子の又二郎元家に充てたものであることが、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)に記され、その書状の原文と現代語訳(一部)が掲載されていますが、その中で、次のようなことも記されています。
 「五人の奉行らと家康との関係が不和であるとのことだが、わが毛利家が巧にその仲介を行なうことが安国寺(恵瓊)の御使によって伝えられた」、「筑前国を当毛利家にお預けになるそうで、近日使者が差しつかわされる。(ただし)これはいまだ内密なので、他言なきように」と。
 さらに中野氏の同書で、この書状について、次のように解説されています。
 「家康と五人の奉行衆との間にすでに懸隔が生じており、臨終にあたって秀吉が厳命した『大老』と『奉行』との交誼、協力体制はすでに破綻(『もはや相違』)しているとの認識が、毛利家にあったことがわかる。
 (中略)毛利家としては、むしろ中立的な立場に拠りつつ両者を仲介し、和議をすすめることを望んでいたようである。また、奉行衆は、輝元を与党を組み入れるために、筑前国を毛利家の支配下におくといった優遇策を提示していたようである。しかしながら、輝元の想いと奉行衆の期待との間には一定のズレがあったと考えるべきであろう」と。
 毛利家の外交僧として安国寺恵瓊が活躍したことがうかがえます。毛利家と奉行衆との間の「ズレ」は、関ヶ原大乱の際にもあったように見受けられます。関ヶ原大乱の際、毛利家は四国や九州など西国の侵攻には積極的でしたが、東国への進出には消極的だったような印象を受けます。吉川広家や毛利秀元は結局、南宮山から動きませんでした。もっとも、南宮山の毛利軍が動かなかったのは、輝元の意思ではなく、吉川広家が家康の圧力に屈して勝手に和平を整えたという白峰氏の見解があり、毛利家の中で意思の統一が図られていなかったのが事実だと思われます。関ヶ原大乱における輝元の動向については、浅野氏の同書で詳述されていますので、改めて取り上げます。

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