石田三成の実像3082 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」94 大西泰正氏「宇喜多秀家の戦い」14 薩摩に逃れた理由

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「宇喜多秀家の戦い」の中で、関ヶ原の戦いで敗れた秀家が、薩摩に逃れた後の行動について、次のように記されています。
 「領主島津忠恒(家久)を頼って2年あまりを大隅牛根(鹿児島県垂水市)に過ごす。慶長8年8月、伏見に出頭した秀家は、翌9月、島津氏や秀家本人の運動などが奏功して助命され、駿河久能(静岡県駿河区)に移送された(久能はしかし不便なので、実際には府中の駿府城に移されたという。『旧記雑録後編』ほか)。だが、何らかの事情があって、さらに慶長11年4月に至って八丈島に流された。二人の息子(孫九郎と小平次)のほか共連れは村田助六ら10人である」と。
 薩摩に逃れてきた秀家に対しての島津氏の対応については、大西氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光洋出版)の中で、具体的に次のように記されています。
 「大名島津忠恒がのちに『不意にこの国へ走り入られ候』と述懐したように、秀家の亡命は唐突なものであった(『武家手鑑』)。忠恒は父義弘・伯父義久と相談を重ね、さらに吉凶を占い『めでた(目出度)き事』との結果を得たうえで、秀家を迎え入れることにした(『旧記雑録後編』)」と。
 秀家が薩摩に逃れてきた理由については、渡邊大門氏の「宇喜多直家・秀家」(ミネルヴァ書房)の中で次のように記されています。
 「関ヶ原合戦以降、島津氏はその後の措置をめぐって、徳川方と交渉を続けていた。薩摩は言うならば、この時点で治外法権のようなものであった。秀家が薩摩を訪れた理由は、そのような利点を生かそうとしたに違いない」と。
 このことについては、 大西氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光洋出版)の中では、「ともに西軍とした戦った島津氏は、いまだ徳川方との和議を結ばず、それでいて処分を免れていた。これ以上の潜伏先はない。秀頼はこの島津氏を頼んで、大名復帰の時節を待ったのだろうか」と記されており、その根拠として出家した秀家の名が「成元」次いで「休復」と改めたことが挙げられています。すなわち、「いずれの名も『元』の立場に『成』る、『休』んで『復』する、と復権の意図が込められているように思われる」と。 
 また秀家が牛根に滞在したことについては、渡邊氏の同書で次のように記されています。
 「年未詳ながら難波経之詠草案が残っており、牛根のことが記されている(『難波文書』)。難波氏は秀家が八丈島に流された後、備前国西大寺から舟に乗り、秀家との面会を果たしたことが記されている」と。
 宇喜多秀家潜居跡の写真が、大西氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」にも渡邊氏の同書にも掲載されています。 
 

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