石田三成の実像3107 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」119 大西泰正氏「前田利長の戦い」12 外岡慎一郎氏「大谷吉継の戦い」16 利長の二度目の出陣が手間取った理由・吉継が美濃方面に転戦した理由

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、一旦金沢に戻った利長の二度目の出陣が手間取ったことについて、次のように記されています。
 「能登一国を領する実弟利政が、正室が上方にいる(人質にとられている)ことなどを理由に出兵を拒否したらしい。ちなみに、9月5日に至って以上の理由を詳しく語った利長の書状(『前田育徳会所蔵文書』、見瀬 2010)には、利政の正室のみが問題とされ、利長の正室玉泉院にはには一切触れられていない。玉泉院が上方にいれば、当然彼女の身の安全が大きな懸案事項になるはずだが、ここで言及されない点から考えると、すでに彼女は上方にいなかったのであろう。(中略)
 ともあれ、利政は再出陣を拒絶した。大聖寺の攻城戦で、予想外の損害をこうむった点も、あるいは利政が出兵を渋った背景にはあるのかもしれない(見瀬 2014)」と。
 利長夫人の玉泉院は、織田信長の娘ですが、この時、すでに北陸に戻っていたという大西氏の見解については、拙ブログで前述しました。
 一方、北国口にいた大谷吉継の情勢については、外岡慎一郎氏の「大谷吉継の戦い」の中で、次のように記されています。
 「吉継は、8月22日、大坂城の毛利輝元、増田長盛と相談することがあると、2千余騎を供として北陸を発ったという。しかし、近江国境に近い越前疋田で石田三成、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘らから遣わされた飛脚の報を受け、急遽大坂行きを取りやめ、翌23日、大聖寺に残した軍勢もすべて引き揚げさせて、美濃に向かうことになったという(『慶長見聞録』)」と。
 吉継が当初、大坂へ向かった理由については、「豊臣秀頼、毛利輝元の出馬要請ではなかったかと考えると興味深い」と推定されていますが、その理由については、今後の検討課題だと思われます。また、吉継が美濃方面に転戦した理由については、外岡氏の同書で、次のように推定されています。
 「吉継は三成らから、あるいは独自の情報網で福島らの動きは大略つかんでいたと思われる。また、福島らが美濃に侵入してきた時点で、吉継が北陸の陣を解いて三成らと合流することは、事前に調整された予定の行動であった可能性もある」と。
 「吉継が北陸から美濃に向かう経緯、期日を知る一次史料はない」とも指摘されていますから、吉継が転戦した理由、時期については、さらなる検討が必要だと思われます。

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