石田三成の実像3108 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」120 大西泰正氏「前田利長の戦い」13 外岡慎一郎氏「大谷吉継の戦い」17 利長と丹羽長重の講和交渉・吉継らの美濃方面への転進によって手薄になった北国口防衛

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、一旦金沢に戻った利長の二度目の出陣について、次のように記されています。
 「9月3日、『東軍』諸将が美濃まで進出したとの報せを受けた利長は、一両日中には小松方面に出撃することを黒田長政と藤堂高虎に仕えたが(『黒田家文書』)、実際の出陣は同月11日までずれこんだ(『加賀藩史料』[稿本])。だが、不利をさとったのか、小松城の丹羽長重はこの頃には徳川家康にも通じて、利長との講和交渉を進めていた(『早稲田大学所蔵文書』ほか)。利長と長重とが起請文を交換して正式に和睦したのは同月18日である(『丹羽長聡氏所蔵文書』ほか」)」と。
利長が関ヶ原の戦いの結果を知ったのは、9月18日のことだということも記されています(『秋田家史料』、藤井 2018)
 利長が二度目の出陣をした時、「北国口」を守っていた豊臣公儀方の大谷吉継は、すでに美濃方面に転戦していましたが、その前に新たな増強部隊が投入されたことしについて、外岡慎一郎氏の「大谷吉継の戦い」の中で、次のように記されています。
 「越前国内で領知を得ていた寺西是定、上田重安、奥山正之、戸田重政(勝成)などとともに、京極高次、脇坂安治、小川祐忠らも『北国口』に配置されてくる」などと。
 もっとも、このうち、京極高次はこの後、大津城に戻って、家康方に付き籠城しますし、戸田、脇坂、小川も吉継と同じく美濃方面に転戦しますが、脇坂と小川は関ヶ原の戦いで裏切りました。戸田重政は吉継隊に属して討死します。このように吉継らの部隊が去った後、「北国口」防衛は手薄になったことがわかりますが、そのことについて外岡氏の同書では、次のように記されています。
 「寺西、上田は丹羽長秀の家臣であった縁もあり丹羽長重の小松城に、奥山は大聖寺城に残されている。利長を止める役割は彼らに委ねられ」たと。援軍が減った丹羽長重の焦りもわかるような気がします。その後の長重について、安藤英男氏の「西軍武将辞典ー石田三成をめぐる60将」の中で、次のように記されています。  
 「利長と和を講じ、 戦後、利長について家康に寛典を請うたが赦されず、所領を没収された。慶長8年11月、常陸古渡1万石の地を給せられ、大坂役には出陣した。元和5年、1万石を加えられ、同8年正月、奥州棚倉5万石とされ、寛永4年、白川10万石に移された。寛永14年閏3月6日病没した。享年67」と。
 一時は改易されるも、後年、10万石の大名として返り咲くわけです。結果的に、利長、家康と和睦したことが効を奏したことになります。
 大谷吉継らは美濃方面に転戦したのは、前述したように島津義弘らからの飛脚によってですが、美濃方面での戦いの重要性をよく認識していたからだと考えられますが、そのため北国口防衛が疎かになった感は否めません。

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