石田三成の実像3113 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」125 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」4 吉川広家の「空弁当」の話は後世の創作・盛親が動かなかった理由

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、盛親らは伊勢方面を攻めた後、美濃方面に移動して、南宮山に布陣しますが、そのことについて次のように記されています。
 「盛親らの軍勢は慶長5年9月10日前後に南宮山(岐阜県大垣市ほか)の尾根沿い東南の栗原山に布陣したのだが、合戦の大勢が決するまで兵を動かせなかったのである。長宗我部軍の前方には、毛利秀元をはじめ吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家らの軍勢がひしめいていて、それら毛利軍が合戦が始まっても一向に動こうとしなかった」と。
 従来は広家が関ヶ原合戦の前日に家康と起請文を取り交わし、毛利軍が兵を動かさなかったという広家の主張が正しいものと思われてきましたが、そのことを記した9月17日付の広家書状案の内容が「捏造」であった可能性があるという白峰氏の指摘が、中脇氏の同書でも取り上げられています。この指摘については、「歴史群像」2017年10月号の白峰氏の関ヶ原合戦の真実」に掲載されていることも中脇氏の同書で合わせて記されているのですが、この白峰氏の見解については、拙ブログで以前に紹介しました。中脇氏も「広家が合戦前に家康ー輝元の和睦を取り付けていたというのは、確かに眉唾の話ではある」と白峰氏の見解に同意されています。
 「合戦への参加を盛親ら後方の軍勢に催促された際の言い訳として『今、兵に弁当をたべさせているところである』と返答したという」、「宰相殿(秀元)の空(から)弁当」の逸話は、「同時代史料はおろか秀元死去直前の慶安3年(1650)8月に完成したという秀元の一代記『聞見録』(『三吉家譜』)にも『空弁当』の記述はなく、江戸初期の毛利家家老の桂元昭が記した『桂元昭覚書』によれば、関ヶ原合戦後に撤退する毛利軍が途中の近江国(滋賀県)で兵に弁当を食わせたという」とあり、「後世の創作であることが明らかにされている」と述べられています。もっとも、これは松田和也氏の「戦後処理と防長両国」の中ですでに指摘されていることが記されています。
 もっとも、「空弁当」の話は、ドラマや小説の中で、実際あったかのような描かれ方がされることが多く、一般の人々もその逸話を事実と信じてる人が少なくなく、描き方を改める必要性を感じます。
 長宗我部軍も動かなかったことについては、中脇氏の同書に次のように記されています。
 「毛利軍が動かないことを無視して長宗我部軍が独自に兵を動かしても、秀元らが万が一、江戸方に内通していれば背後や側面から攻めかかられる危険があった。結果的に盛親は合戦の火蓋が切られた後も詳しい推移や状況をうかがい知ることができないまま、小早川秀秋らの江戸方への寝返りなどもあり勝敗が決してしまったのである」と。
 こういう捉え方は妥当なものだと思われます。南宮山布陣はもともと大垣城の後詰であり、大手口は大垣の方を向いており、逆に関ヶ原方面はよく見えない位置にありました。合戦が始まったのはわかったとしても、どういう情勢か盛親にはよくわからなかったのではないでしょうか。
 

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