石田三成の実像3114 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」126 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」5 敗戦を知り撤退・毛利秀元は撤退戦を行う(白峰氏の考察)

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、南宮山(具体的には栗原山)に陣した盛親が大坂方(豊臣公儀方)の敗戦をどのように知ったのかは諸説あって判然としないことについて、次のように記されています。
 「盛親の重臣、吉田孫左衛門が敵陣へ潜入して敗戦を知ったであるとか、敗走してきた島津軍の兵によって敗戦が知らされたと伝わる」と。
 拙ブログで前述したように、南宮山からは関ヶ原の様子はよくわかりませんから、そこにいては戦況がどうなっていたかは知り得なかったはずです。島津隊の逃走路は、一般的には烏頭坂から伊勢街道を南下したものと考えられますから、長宗我部軍が陣を置いていたのは、伊勢街道に近いところであり、島津軍の兵から敗戦を知ったというのは、十分ありうる気がします。もっとも、中脇氏の同書に掲載されている関ヶ原合戦の各武将の布陣図は、従来の通説に基づくものを元に作成されています(『歴史群像シリーズ29 長宗我部元親』【学研】1992年)から、三成隊も島津隊も関ヶ原に布陣したことになっています。白峰氏や高橋陽介氏によれば、三成や島津が陣を置いていたのは関ヶ原ではなく、山中だと主張されています。
 敗戦を知った盛親のその後の行動については、次のように記されています。
 「土佐への撤退・帰国を決断し、伊勢方面に逃走し和泉国貝塚(大阪府貝塚市)付近で、江戸方の岸和田城主小出秀政らの軍勢と交戦したという。それでもどうにかして9月下旬には土佐への帰国を果たしたのである」と。
 栗原山から撤退する時に、長宗我部隊が敵の攻撃を受けたかどうかは判然としませんが、白峰氏の「南宮山からの撤退戦についての毛利秀元発給の感状」(日本史史料研究会編『日本史のまめまめしい知識3』所載)には、毛利秀元軍の方は、南宮山から撤退する時に、家康方の徳永寿昌、市橋長勝、横井時泰と思われる部将に攻撃されたこと、この「撤退戦において後衛になり、敵と戦ったのは、垣田勘左衛門の鉄炮組(20挺)、横山伝兵衛の鉄炮組(20挺)、桂藤兵衛の大組(50騎)であった」ことなどが明らかにされています。
 盛親が秀元より早く撤退したとすれば、攻撃を受けなかった可能性はないとは云えませんが、なんらかの敵の攻撃を受けた可能性はあると考えられます。毛利秀元隊のように長宗我部盛親隊もきちんとした兵科別編成ができていたかはわかりませんが、兵力数は少ないとはいえ、一応、そういう編成はできていたのではないでしょうか。このあたりは今後の検討課題です。

 

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