石田三成の実像3121 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」133 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」5 勝茂・龍造寺軍は伏見城攻めの後、伊勢方面へ

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原大乱の際、豊臣公儀方に付いた勝茂・龍造寺軍の動きについて、次のように記されています。
 「龍造寺軍の兵力は約7000。西軍では100石3人役を課したようで、当時の龍造寺家の石高30万9900石にしてはやや少なく、事実、勝茂は2000の増派を国許に懇願している。それにしても、龍造寺軍の兵力は毛利、宇喜多、小早川秀秋軍に次ぐ有力なものであった。戦闘序列としては龍造寺軍は小早川秀秋の組下に編入されたようである。
 龍造寺軍はまずは家康の宿将鳥居元忠が守る伏見城攻略に参加、8月1日の総攻撃では大手口を受け持ってこれを攻め破り、奉行衆から感状を与えられた」と。
 伏見城落城する直前の7月29日には、三成が督戦に訪れ、その成果があってか、8月1日に攻め落とすことができたわけです。もっとも、三成は落城を見ることはなく、7月30日に大坂に入城しています。そして、その直後に、三成は奉行職に復帰し、ここに二大老・四奉行による新たな豊臣公儀体制が正式に整うわけです。
 増田長盛が勝茂と毛利勝永に対して、感状を8月1日付で出しています。その書状は、白峰氏作成の「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」にも掲載されており、その内容について、「(伏見城の)本丸について御手前より乗っ取った、とのことで御手柄として賞する」と記されています。ちなみに、同日付で、二大老・四奉行が蒔田広定に宛てて連署状を出しており、それが二大老・四奉行による連署状発給の最初です。
 この後、龍造寺軍は毛利勢と共に伊勢方面の攻略に向かうわけですが、この時の豊臣公儀方の戦略して、中西氏の同書には、「予想される家康の西上以前に畿内近国の東軍勢力を一掃し、美濃・尾張国境付近で決戦する戦略を採択したと推測される」と記されています。
 そういう戦略を具体的に物語るものが、真田家に残る、8月5日付の「備口人数」ですが、五軍編成であり、伊勢口(伊勢方面軍)、美濃口(美濃方面軍)、北国口(北国方面軍)、勢田橋爪在番(瀬田橋防衛軍)、大坂御留守居(大坂城鎮守軍)に分かれています。その表によれば龍造寺高房・鍋島勝茂軍は、「9800人」と記載されています。当初は「7000人」でしたから、勝茂が国許に要請した「2000人」が加わるものと見越した数字でしょうか。このあたりは、今後検討する必要があるように思います。いずれにせよ、伊勢方面軍で1番軍勢が多いのは宇喜多秀家軍「1万8000人」、毛利秀元軍「1万人」(表では毛利秀就と記されていますが、白峰氏は毛利秀元と読み替えるべきだと指摘されています)ですから、龍造寺軍はそれに次ぐ規模でした。

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