石田三成の実像3123 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」135 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」7 敗戦後の勝茂は謹慎・家康に謝罪し許されるが、立花宗茂を討つことを求められる

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原の戦いの敗戦を知った勝茂の動きについて、次のように記されています。
 「勝茂は、澎湃として起こる落ち武者狩りに悩まされながら大坂に引き揚げた。壮絶な敵中突破の末に和泉堺にたどり着き、海路帰国しようとした島津義弘は勝茂に使者を遣わして同行を誘った。龍造寺軍が家康に敵対し続けていると考え、九州での共闘を企んだのである。しかし、勝茂はこれを謝絶した。勝茂は龍造寺一門と相談のうえ、玉造屋敷で謹慎して家康の沙汰を待つことにした。
 (中略)高房は大広間にて勝茂並びに家臣一同に対し、もし赦免なきときには自分と勝茂は屋敷で切腹するので、家中の者どもは京・大坂・伏見に走って市街を焼き払い、押し寄せる討手と戦いことごとく討死を遂げよという、壮絶な訓示を述べている。高房が確かに龍造寺領国の主君として奉じられていたことを示す逸話である。
 結局のところ、黒田長政、井伊直政、元佶長老らの口添えもあって、勝茂は家康に拝謁・謝罪することができた。家康は従来の直茂の忠義に免じて勝茂の西軍加担の罪を許すとした。しかし、戦意旺盛なまま帰国してしまった筑後柳川城主の立花宗茂を攻めることを命じている。そのことで立功贖罪せよというのである」と。
 帰国する義弘が勝茂に同行を誘ったことについては、中西氏の同書にはその典拠が示されておらず、桐野作人氏の「関ヶ原 島津退き口」(学研新書)の中でもそのことについては一切記載がありませんが、勝茂が島津との共闘を断ったということが事実であるとするなら、家康に謝罪し赦免を願っていたというのが勝茂の姿勢だったと思われます。しかし、それが駄目な場合は、必死の戦いを挑む覚悟だったことが、悲壮な高房の訓示からもうかがえますが、これも事実であるかどうかは検証が必要だと思われます。家康が彼らを赦したのは、直茂とのそれまでの良好な関係があっただけではなく、九州の情勢がいまだ不安定だったことがあったためでしょう。立花宗茂や島津義弘が抵抗しており、彼らと戦うためには、鍋島を味方に取り込んで、彼らと対抗させようという家康の思惑がありました。実際、家康は立花氏を攻めるように勝茂に命じたわけですから、鍋島氏に恩を売って自分の持ち駒として扱ったわけです。
 関ヶ原の戦いでも、最初は豊臣公儀方として戦い伏見城攻めに参加した小早川秀秋が、最後は裏切って家康方に付き、戦いを勝利に導くという一番の功績を挙げたにもかかわらず、家康は小早川に、三成の居城である佐和山城を攻めさせています。家康は彼らが自分の味方であることをしかと確認するため、さらに敵を討つことを求めたわけです。これは家康に限ったことではなく、戦国時代にはごく当たり前のこととして行われていました。
 勝茂はこうして帰国したわけですが、龍造寺高房は人質として大坂にとどめられました。

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