石田三成の実像3128 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」139 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」11 日隈城の留守居役と連絡を取り合っていたことを示す書状2 家康方に攻められた場合の準備

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原の戦い後の国許にいる直茂について、 「西軍方としての立場を取り続けた」ものの、「毛利高政の留守城の豊後日隈城から黒田如水の脅威に対抗するための加勢を求められた際には、加勢は出すべきとしながら、」「実際に軍事行動を起こすことに対しては慎重な態度を取っている」と指摘されていることは前述しました。それに関連して、直茂が豊後日隈城の留守居役である森(毛利)兵庫と連絡を取り合っていたことを示す書状2通が、白峰旬氏の「関ヶ原の戦い関連の鍋島家関係文書についての考察」の中で、取り上げられていることに触れ、そのうちの1通は紹介しましたが、もう1通は9月17日付の鍋島生三宛鍋島直茂書状」であり、次のように解説されています。
 「『日田』(森〔毛利〕兵庫)へ遣わした前掲の24号文書の返事が来たことを伝えている。その返事は、(中略)2通(「両通」)来たことがわかり、そのうち1通は鍋島直茂のもとにとどめておいたことがわかる。
 その返事の内容は、(中略)黒田如水が『豊後表』に出陣して『勝利』したことが書かれていたことがわかり、このことは石垣原の戦いで如水が大友義統に勝利したことを指している。(中略)
 この返書は、鍋島直茂が各自に見せる予定なので、鍋島生三へは渡さずに鍋島直茂のもとにとどめておく、としている。ということは、石垣原の戦いにおける如水の勝利が、鍋島家にとって非常に重要な情報であったことを示している。また、別の見方をすれば、鍋島家の情報網では、豊後での黒田如水の軍事的動向は把握できなかったことを示している。(中略)
 鍋島直茂が家康方であると如水が認識していれば、如水から直茂に直接戦勝報告が行くはずであるので、この時点(9月17日の時点)で如水は直茂を家康方とは認識せず、豊臣公儀方と認識していたことになる。この書状の内容を見るとわかるが、如水の勝利をめでたいなどとは記していないので(つまり、直茂は喜んでいないので)、直茂は如水とは、この時点(9月17日)で同じ立ち位置ではなかったことは確実である」と。
 「前掲の24号文書」が、前に紹介した8月24日付の鍋島生三宛鍋島直茂書状です。9月17日の時点でも、直茂は豊臣公儀側に付いていたことがわかりますが、この時点で関ヶ原本戦の戦いの結果は伝わっていませんでした。もっとも、敗戦がわかってからも、勝茂や龍造家の処分が決まっていませんでしたから、直茂が家康と戦う準備を整えていたことが、中西氏の同書に記されています。
 すなわち、「佐賀城外の八戸に今もその名が地名に残る防御施設『十間堀』を掘らせて佐賀城の防備を固めた。さらに、公儀の龍造寺征伐が発動されたとして、家康が主将として下向した場合のその本陣を豊前小倉と想定し、征伐軍の先鋒を肥前の国境で食い止めている間に選りすぐった精兵を発し、筑後方面から迂回してこれを急襲するという乾坤一擲の作戦を立て、具体的な準備も進めていた」と。
 もっとも、このことは徳川幕府を憚って、佐賀藩の編纂史料などには残されていず、口伝として伝えられたものだということも記されています。江戸時代の編纂史料を取り上げる時には、内容の信憑性をよく吟味しなければならず、また逆に編纂史料には書かれていない口伝や伝承も安易に切り捨てるのではなく、真実が含まれていないかよく検討する必要性があります。 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント