石田三成の実像3130 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」140 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」12 関ヶ原の戦いの際は直茂・勝茂共に豊臣公儀側の立場を標榜

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原の戦いの際における直茂・勝茂の姿勢について、次のようにまとめられています。
 「直茂も終始一貫西軍方の立場を標榜していたわけで、直茂・勝茂父子が東軍・西軍双方に便宜的に分かれて龍造寺家の安泰を図ろうとしたという事実はなかったことになる。ただ、それまで直茂が家康与党であったことは確かで、もしも勝茂が家康軍に同行して会津征伐に従軍していたら、国許の直茂も東軍方として積極的に活動していたものと思われる。
 これも徳川幕府を憚ってか、『勝茂公御年譜』などの佐賀藩編纂の史料類では勝茂がやむなく西軍に属したような記述が多くみられるが、実は勝茂が独断で積極的な西軍加担を決断したようなのである」と。
 直茂・勝茂が敵味方に分かれて家の存続を図ったという通説は、書状などの一次史料の検討などから成り立たず、共に豊臣公儀方に付いていたことが明らかにされているわけです。勝茂が本当に独断で新たな豊臣公儀方に付いたのか、会津攻めにすぐには向かわず一ヶ月近くも逡巡していたのはなぜなのか、直茂が家康与党といっても実際に家康の天下を望んでいたのか、あくまで豊臣政権の大老の実力者としての地位を認めてそれに従っていただけなのか、などという点については、これからの検討課題であるような気がします。
 中西氏の同書では、「実のところ、関ヶ原の戦いをめぐる龍造寺・鍋島家の苦難は勝茂の若気の至りが招いたものであり、龍造寺家の存亡を賭けて戦国たけなわを生き抜いた冷徹な現実主義者であった直茂も困惑懊悩させるものでだったのである」と指摘されています。
 確かに直茂が「冷徹な現実主義者であった」という点や、関ヶ原の戦いが「困惑懊悩させるものであったのである」という見解はその通りだと思いますが、「勝茂の若気の至り」という見方には、異論があります。結果からして、豊臣公儀軍は敗れてしまいましたから、その味方をした勝茂は悪く思われがちですが、その判断が間違っていたということまでは云えない気がします。当時、新たな豊臣公儀方に付くか、家康方に付くかは、少なからぬ大名が迷った選択ではなかったでしょうか。負けた方が悪く言われるのは世の常であり、特に関ヶ原の戦いの場合は、勝った徳川氏の幕府政治が260年余りも続きますから、敗者は徳川家に歯向かったものとして、奸臣扱いされ、その見方が江戸時代ずっと続いたのみならず、明治以降もその見方が踏襲されたきらいがあります。三成はその最たるもので、陰謀家、横柄な官僚、人望のない人物などと見なされてきました。関ヶ原の戦いで豊臣公儀方についたものの、かろうじて滅びなかった家々も、江戸時代を生き残るためには、積極的に豊臣公儀方に付いたわけではないという言い訳をする必要がありました。鍋島家もそうだったわけです。

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