石田三成の実像3136 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」143 渡邊大門氏「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」1 小早川秀秋の裏切りは開戦当初からという白峰氏の見解に肯定的

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、渡邊大門氏の「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」の中で、三人をまとめて取り上げたことについて、「三人が東軍の勝利に貢献した」点が挙げられ、「三人の関ヶ原本戦における戦いぶりを取り上げ」ておられますが、「注意すべきこととして、一次史料に戦いぶりが詳述されていることはなく、多くは二次史料の記述によらざるをえない点である」とことわられています。
 その点で、疑問や問題を感じるところは多々あり、これからの検討課題だと感じることは少なくないのですが、それは追々述べていきたいと思います。
 まず小早川秀秋については、関ヶ原本戦で途中から家康方に寝返ったという通説が否定され、合戦開始時から家康方に属して戦ったという白峰氏の見解が肯定されています。さらに途中まで様子見をしていた松尾山の秀秋に家康が鉄砲を撃たせて裏切りを促したという、いわゆる「問鉄砲」と称されている話は、事実ではなく後世の創作であると検証された白峰氏の見解は、「学界で広く認められるようになった」と肯定的に捉えられています。
 ただ、渡邊氏の同書では、開戦時刻を午前10時頃だと推定されています。その根拠として挙げられているのは、堀文書の「十五日巳之刻、関か原へ指懸被為及一戦」という記述です。また「此四人御味方被申、うらきり(裏切り)を被致候」という記述から、「この四人(小早川秀秋
、脇坂安治、小川祐忠・祐滋父子)は開戦直前まで西軍に味方していたというのが、東軍側の認識だったと推測される」ということも記されています。
 もっとも、白峰氏は「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」の中で、島津家家臣の史料の検討から、関ヶ原合戦は二段階で行われたと指摘されています。まず関ヶ原エリアに布陣していた大谷吉継が、早朝に家康方軍勢と、裏切った小早川秀秋の軍勢によって挟撃され、壊滅します。そして第2段階として、山中エリアに布陣していた三成ら豊臣公儀方の主力部隊が、午前10頃から家康方軍勢に攻撃され、正午頃には壊滅したと主張されています。
 渡邊氏の同書には、主戦場が山中エリアであったということは述べられていません。従来の通説通り、関ヶ原エリアで戦われたと考えておられるのでしょうか。山中での戦いが主だったということも、最初に指摘されたのは白峰氏です。
 また関ヶ原の戦いは、「井伊直政と松平忠吉が西軍の陣営(宇喜多氏の陣営)に突撃してはじまり」というふうに、これも従来通りの描き方がされています。この点に関して、「井伊直政と松平忠吉が抜け駆けをし、合戦の火ぶたを切ったという話も後世の創作」だと指摘されたのは高橋陽介氏ですが、白峰氏も「確かに一次史料では確認できないので、『後世の創作』という指摘については首肯できる」と述べられ、肯定的見解が示されています。

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