旅行記273 石田三成の実像3139 7ヶ月ぶりの旅行 佐和山・関ヶ原・大垣6 関ヶ原北小学校跡地に笹尾山交流館・決戦地碑・従来通りの家康対三成という捉え方

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 2000年の関ヶ原合戦400年祭の時に合戦の場面が再現されていたのは笹尾山の隣の関ヶ原北小学校のグラウンドにおいてであり、私は笹尾山の馬防柵のところからずっと見ていました。しかし、今は北小学校は南小学校と統合され、閉校となり、今は校舎の一部は笹尾山交流館になっており、グラウンドは広場になっています。笹尾山の三成陣跡の麓におかれていた、武将の兜をイメージしたと思われる「無限時空」と題するオブジェは広場の方に置かれていました。交流館には関ヶ原に関連したグッズが販売されていましたが、関ヶ原本の中に、オンライン三成会編の「三成伝説」も置かれていました。今でも売れているのかどうか気になりますが。
 DSCN1611.JPG 笹尾山交流館の南にある「関ヶ原古戦場 決戦地」碑のところにも、人々が訪れていました。関ヶ原ではどこもそうですが、家康対三成の戦いという捉え方がされており、この碑にも、家康と三成の旗印がたなびいています。しかし、この戦いは実際には家康主導軍対二大老・四奉行体制による豊臣公儀軍という構図であったことが、最近の研究で明らかになっています。決戦の地もここよりもっと西の山中エリアであったという見解も出ており、従来の説にとらわれず、この戦いの実態を改めて解明し直す必要があることを痛感します。
 「三成伝説」に、これまでの通説に従って決戦地や各武将の陣跡を地図に載せた身としては、当時としては仕方ない面があったとは言え、忸怩たる思いがあります。もっとも、現在でも多くの関ヶ原本では、関ヶ原合戦の布陣図や各武将の陣跡は従来通りのままになっている場合が少なくありません。「歴史道 関ヶ原合戦『東西70将の決断!』」(朝日新聞出版)でも、通説通りの布陣図や各武将の陣跡が掲載されています。千田嘉博氏が新たに発見された玉城跡に関するインタビュー記事や、玉城を本拠とした、いわゆる西軍(豊臣公儀軍)の推定布陣図も載っていることは、拙ブログ記事でも取り上げましたが、わずか2ページだけの掲載です。

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