大阪府立茨田高校の元同僚との京都散策2 狭くなった方広寺・大仏と大仏殿の悲哀の歴史・遺構が発見された大仏殿跡緑地公園

DSCN1358.JPGDSCN1361.JPGDSCN1360.JPG 豊国神社からそのすぐ北隣の方広寺を訪ね、大坂の陣のきっかけとなった、梵鐘の銘文の「国家安康」「君臣豊楽」の部分(そこだけ白色で四角く字が囲まれています)を見ました。本堂は公開されていませんでしたが、当時の大仏の10分の1のレプリカが安置されています。今の方広寺の境内は狭くなっていますが、かつては今の豊国神社から京都国立博物館、さらには三十三間堂に及ぶ広大な敷地でした。秀吉が大仏と大仏殿を建立しましたが、慶長元年(1596)の伏見大地震で大仏が崩壊しました。秀吉の死の翌年の慶長4年、秀頼が大仏を復興しますが、3年後に焼失します。秀頼がその6年後に再復興しますが、慶長19年、大仏開眼供養を催そうとした時、梵鐘の銘文が問題視されたため、開眼供養が延期され、大坂の陣が勃発し、その結果、豊臣家が滅亡します。大仏は寛文2年(1662)に地震で崩壊し、修復された大仏が寛文7年に完成しますが、大仏も大仏殿も寛政10年(1798)に落雷により焼失するわけです。豊臣家の悲劇と大仏の運命とは結びついている気がしますし、現地を訪ねると、「つわものどもが夢の跡」という思いを感じてしまいます。
 大阪府立大手前高校に勤務していた2007年、集中セミナーの講座「京都における豊臣秀吉関連遺跡を訪ねて」と題して、1・2年生の希望生徒17名を引率して耳塚、豊国神社、方広寺、そして京都女子大学がある俗に言う「女坂」から阿弥陀ヶ峰の頂上にある豊国廟(秀吉の供養塔。 500段以上の石段を登らねばなりません)まで訪ねました。生徒には馴染みのない場所ばかりでしたが、少しは歴史に興味を持ってくれたようでした。生徒の中には、外国人の短期留学生が二人いたので、この講座の内容についてあまり理解してもらえなかったかもしれませんが、どこも目新しいところで、学ぶところはあったようです。この時のことは、当時、拙ブログに記しました。
 今回、茨田高校の元同僚たちとは豊国廟の方には行かず、六波羅蜜寺の方へ足を延ばしました。

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