石田三成の実像3160「関ヶ原大乱、本当の勝者」158 渡邊大門氏「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」16 井伊直政と松平忠吉が抜け駆けしたことに対して否定的見解

 白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、渡邊大門氏の「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」の中で、関ヶ原の戦いの際、井伊直政と松平忠吉が抜け駆けして、先陣を切ったとされる従来からの説に対して、否定的見解が述べられています。
 すなわち、「家康が直政に戦闘の指揮を任せたことから、当日は正則が直政の指示に従い、直政・忠吉に先鋒を交代したというのが自然な考え方である。ただ、正則が直政・忠吉に抜け駆けを許したとはいえ、その軍功が認められなかったわけではなく、大幅に加増された」と。
 渡邊氏の同書では、直政・忠吉の抜け駆けについて、江戸時代の軍記物や編纂史料における記述などが詳しく紹介され、笠谷和比古氏の見解も取り上げられています。笠谷氏の見解は、次のように要約されています。
 「直政と忠吉は偵察のため前線に出たところ、たまたま敵と遭遇した。そこで、2人は自ら槍を取って敵と戦った形を作り、抜け駆けをしたという非難を回避しようとした。同時に、家康の血筋を引く忠吉が、関ヶ原で一番槍を入れたことを残そうとしたとする。足軽隊による銃撃戦よりも、忠吉が馬で敵陣に攻め込み一番槍を入れたことは後世まで語り継がれる名誉になった」と。
 この見解に対して、渡邊氏はさまざまな疑問点を挙げられ、上記のような考えにたどり着かれたわけです。
 そもそも一次史料に、直政・忠吉の抜け駆けの記載が一切ないことが原因であり、高橋陽介氏は直政・忠吉の抜け駆けは「後世の創作」だとされ、白峰氏もこの見解に同意されています。ただし、井伊直政が家康方軍勢の先手であったことも白峰氏は指摘され、その根拠として、「(慶長5年)9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署状の次のような記述が挙げられています。
 「この地の衆(尾張衆)・井伊直政・福島正則が先手となり、そのほか(の諸将が)すべて次々と続き、敵が切所(要害の地)を守っているところへ出陣して戦いをまじえた時(開戦した時)(後略)」と。
 直政・忠吉の抜け駆けが後世に創作されたという背景として、関ヶ原の戦いで徳川の活躍を際立たせる必要があったためでしょう。関ヶ原の戦いの勝利は、家康が江戸幕府を開く契機となった重要な出来事ですから、徳川の人間が戦端を開く必要があり、そのために創出された話のような気がします。それは、家康が松尾山にいる小早川秀秋に鉄砲を撃たせて裏切りを促したという、いわゆる「問鉄砲」の話と、同じ構図だと思います。実際は、秀秋は戦いの最初から裏切っていたということを白峰氏が最初に指摘されましたが、家康の活躍によって、戦いを勝利に導いたという形にしなければ、徳川将軍家にとって都合が悪いことだったからです。関ヶ原の戦いは、家康方に付いた豊臣系武将の働きによって勝ったのが実情で、それだから、戦後の論功行賞も、豊臣系武将に大幅加増しなければならなかったわけです。

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