石田三成の実像3163  白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」4「7月29日付大関資増宛浅野幸長書状」の内容解釈4 家康が宇都宮で上杉討伐の延期を決定した後、浅野幸長は宇都宮→小山→結城と移動

 白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」(『史学論叢』第51号所載)で、まず「7月29日付大関資増宛浅野幸長書状」が取り上げられ、その内容解釈を、拙ブログで紹介していますが、その続きです。
 「結城辺迄罷越候」、追而書の「尚々去廿三日之御状畏入候、其刻小山へ罷越、御返事不申入候」という記述について次のように解説されています。
 「浅野幸長の位置情報に関する記載である。7月23日付の浅野幸長宛大関資増書状は、当初は宇都宮に出されたと考えられる。その理由は、宇都宮城が上杉討伐の徳川方本営であり、諸将が集結していたからである。浅野幸長も宇都宮城に在陣しているという確かな情報を大関資増は持っていたのであろう。
 しかし、7月23日付浅野幸長宛大関資増書状が宇都宮に届いた時点では、浅野幸長は小山に移動しており、さらに7月29日付の時点(浅野幸長書状の日付)では結城にいる、としている。つまり、浅野幸長は宇都宮→小山→結城というように南下して移動していたのである」と。
 また「結城辺迄罷越候」、追而書の「其刻小山へ罷越」という記載について、水野伍貴氏は「追而書ではあえて小山にいたと述べていることから」、「話し合いのために小山に赴いたこととなる」や「評定のために小山へ赴いたこととなる」と解釈されているものの、白峰氏は「『小山にいた』のではなく、『小山に行った』と解釈すべきであり」、「話し合いのため」や「評定のために」「とは書かれていない」と指摘され、「移動中に小山、結城に立ち寄ったというニュアンスが強いように思われる」「浅野幸長は小山に行って返事が書けなかった、としているが」、「このことは、浅野幸長が小山に在陣(滞在)していなかった傍証になろう」と論じられています。
 ちなみに、「まかりこす(罷越)」は、「日本国語大辞典」(小学館)では、「『行く』の謙譲語。まいる。参上する」と語釈されており、確かに、白峰氏の見解通り、「小山にいる」よりも、「小山に行った」とする方が、本来の意味に近いのではないかと思われます。「小山在陣」と解釈するのは無理があるような気がします。
 下野国黒羽城主の大関資増が7月23日付で浅野幸長に出した書状が宇都宮に届いた時には、浅野幸長はすでに宇都宮を離れていたことから、家康が上杉討伐の延期を決定したのは23日か24日になると白峰氏は推定されているものの、拙ブログで前述したように、7月23日付の最上義光宛徳川家康書状写などから、上杉討伐の延期を決定したのは7月23日のことで宇都宮においてであり、家康の上洛に関する言及が初めて家康書状に記されるのが同じ7月23日付の山崎家盛・宮木豊盛宛徳川家康書状写であるということから、「家康の上洛についても上杉討伐の延期と1セットで7月23日に宇都宮で決定した可能性が高い」と指摘されています。
 小山評定否定派の人々はこういう白峰氏の見解にどう反論されるか、その論考が出されるのを楽しみにしています。

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