石田三成の実像2955 高橋陽介氏「本多隆成氏の『「小山評定」再々論 家康の宇都宮在陣説を中心に』を拝読して」4 7月19日付の福島正則宛家康書状についての解釈

 高橋陽介氏の「本多隆成氏の『「小山評定」再々論 家康の宇都宮在陣説を中心に』を拝読して」(織豊期研究会発行「織豊期研究 第22号」に掲載)の中で、拙ブログで前述した四つの疑問点を挙げた上で、「福島氏系譜」所収の慶長5年7月19日付の「福島正則宛家康書状」について、次のような解釈が可能だとされています。
 「7月19日、徳川家康は上方の情勢に関する何らかの情報をえて、駿河方面にいる福島の人数を西上させるように指示したうえで福島正則を江戸に呼び寄せた。家康の使者は東下する福島正則といずれかの場所(相模辺り)で行き会い、福島正則は7月21日、江戸に着いた。同日、家康は福島正則に何らかの指示をしたうえで江戸を出発し宇都宮へ向かった。徳川家康はこの時点ではまだ『内府ちがいの条々』の存在を知らず、決起したのは石田三成・大谷吉継のみであり、奉行衆(増田長盛・長束正家・前田玄以)は味方であると認識している」と。
 高橋氏は、白峰氏と本多氏の論争を通じて、「福島正則が駿河から江戸に呼び出された可能性」を新たに指摘されているわけですが、福島正則がこの前後、どういう行動を取っていたのかについては、今後さらなる検討が必要だと思われます。
 家康が7月21日に江戸を出立したことに関しては、研究者の間に異論はありませんが、問題はそのあとです。小山評定が開かれたとされる25日には、白峰氏は小山から宇都宮に移動した日とされています。高橋氏は本多氏の見解通り、「『7月25日に小山で何らかの談合・評定が行われた』と結論づけてよいのではないか」と指摘されています。しかし、この後、白峰氏によるさらなる反論が出ることも考えられますので、今後の研究成果を待ちたいと思います。
また「家康はこの時点ではまだ『内府ちがいの条々』の存在を知らず、決起したのは石田三成・大谷吉継のみであ」ると認識していたというのは、研究者の間で共有されているように思われますし、小山評定があったとされる7月25日の段階でも「内府ちがいの条々」の存在を家康は知らなかったという点でも、認識はおおよそ一致しているのではないでしょうか。
 この点について、本多氏の「『小山評定』再々論ー家康の宇都宮在陣説を中心に-」の中で、「29日には『内府ちかひの条々』が発せられたことを知った家康が、数々の重要な指示を行っている」と指摘されています。なお、本多氏はこの翌日の30日に宇都宮に向かったとされており、家康が宇都宮に在陣したという点では、白峰氏の見解と共通しているわけです。決定的に違うのは、白峰氏は25日に宇都宮に向かったとされているという点で、この日に小山評定が行われることはありえないという論拠の一つになっています。このあたりの家康の行動についても、さらなる研究が求められます。

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