石田三成の実像2961 「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」3 東美濃への侵攻の意味合い

白峰旬氏の論考「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」(2020年発行『別府大学紀要』第61号所載)の中で、この書状の原文、現代語訳が紹介され、その内容が検討されていますが、その続きです。
 「小笠原長巨(ながなお)を、そちら(=木曽谷)への加勢として人数(=軍勢)を遣わした」と現代語訳されている部分について、次のように解説されています。
 「小笠原長巨を加勢として木曽谷へ遣わすことを伝えたものである。小笠原長巨の派遣も、上述した遠山友政の派遣と同様に、東美濃への侵攻を視野に入れたものであろう。小笠原長巨は、信濃国松尾城主の小笠原信貴(松尾小笠原氏)の次男であり、長男(=長巨の兄)の小笠原信嶺(のぶみね)は徳川家康の関東移封に従い、武蔵国本庄城主(1万石)であった」と。
 家康方による東美濃への侵攻の意味合いについては、白峰氏の同論考で、「秀忠の信濃国を経由しての西上に際して、秀忠の進軍ルートを先に空けさせる意味があった。その家康の命を受けたのが木曽義利の旧家臣であった山村良勝・千村良重であった、ということになる」と指摘されています。
 家康方の軍勢の西上は、家康と秀忠が別ルートで進軍しますが、秀忠の進軍の目的は、信濃国の真田昌幸の上田城攻撃だったとする(従来は、秀忠は家康に信州攻略を命じられたのに、真田昌幸の策に乗せられ、上田城攻めに手間取り、関ヶ原の戦いに間に合わなかったというのが通説でした)のが、最近の研究者の共通認識になっており、白峰氏もその見解を踏襲されています。
 この点について、桐野作人氏の「真説 関ヶ原合戦」(学研M文庫)の中で、次のように記されています。
「近年の笠谷和比古氏や藤井讓治氏の先行研究も指摘するように、それは信州上田城にこもる真田昌幸を攻めるのが当然の任務だったというべきである[笠谷1994、藤井2000]」
 「家康は秀忠に信州平定とくに上田城攻略を命じたのである」と。
 その根拠として、「信幸に昌幸の所領小県への出陣を命じ」た8月23日付真田信幸宛徳川秀忠書状、「信州真田表仕置のため、明日24日出馬せしめ候」という文言がある岡田善同(織田信雄の元家老)宛8月23日付秀忠書状、「秀忠に信州平定とくに上田城攻略を命じた」8月24日付の浅野長政宛徳川家康書状が挙げられています。

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