石田三成の実像3004 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」38 本間宏氏「上杉景勝の戦い」18・菅原義勝氏「最上義光の戦い」1 8月18日付の直江兼続宛最上義光書状写をめぐって・上杉と伊達、最上との石高や家格の違い

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長5年8月18日付の直江兼続宛最上義光書状写について取り上げられていますが、次のように記されています。
「そこには、嫡子義康をはじめとする人質を指図次第に差し出すこと、自分は一方の軍勢を引き連れ、景勝のもとでどの方面にでも出兵することなどが記されている。降伏状ともいうべきこの史料を偽書とみなす意見があるが(片桐 2009)、義光が降伏に言及しつつ時間稼ぎをしていたことは、他の史料によっても裏付けられる」と。
 この書状については、菅原義勝氏の「最上義光の戦い」の中でも、取り上げられ、この史料についてはいろいろな評価があると紹介された上で、次のように指摘されています。
 「現在では偽文書とする説が有力だが、江戸時代に作成されたものか、あるいは義光と奥羽諸将との起請文中にも記されているように、虚偽・計策が錯綜していたなかで最上方か上杉方が当時作成したものか、なお検討の余地があろう。いずれにしろ、会津出兵が中止となり、奥羽諸将の帰国が取り沙汰されている今、義光にとって上杉の存在はあまりに大きな脅威となっていた」と。
 この時、上杉氏は120万石でしたが、最上氏は24万石と言われており、矢部健太郎氏の「関ヶ原合戦と石田三成」(吉川弘文館)の中でも、24万石と記されています。もっとも、菅原氏の同書では、文禄3年の検地によって、領知高は13万石と記されていることが明らかにされています。いずれにせよ、余りにも石高の規模が違い過ぎましたから、最上氏が脅威を感じていたのも当然と云えます。
 ちなみに、関ヶ原の戦いにおける上杉景勝の官位は従三位権中納言、家格は「清華成」であったのに対して、最上義光の官位は従四位下侍従、家格は「公家成」でした。伊達政宗は石高58万石ですが、官位と家格は最上義光と同じです。三成は、石高19万4千石、官位は従五位下、家格は「諸大夫成」でした。
 家格は、豊臣宗家の豊臣秀頼が「摂関成」、次に大老衆及び徳川秀忠・小早川秀秋が「清華成」、その次に島津義弘・島津豊久・吉川広家・佐竹義宣・長宗我部盛親・井伊直政・福島正則・細川忠興らが「公家成」、奉行衆や小西行長・浅野幸長・黒田長政・藤堂高虎・山内一豊らが「諸大夫成」でした。秀吉はこういう序列を設けることによって、武家の公家化をはかり、豊臣政権の恒久化を目指したわけです。
 石高だけでなく、官位でも家格でも最上義光や伊達政宗は上杉景勝に及ばなかったわけですが、関ヶ原の戦いの後、一変します。特に最上義光は57万石の大大名になったのに対して、上杉景勝は米沢30万石に大幅減封されてしまいます。もっとも、後に最上家は改易処分になってしまいますが。

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