旅行記290 講演会出席を兼ねての彦根旅行7 竹生島の宝厳寺の本堂への石段・「竹生島奉加帳」の「石松丸」は秀吉の実…

 竹生島の宝厳寺の本堂へ行くまで165段の石段を登らねばなりませんが、30年近く前、まだ小さかった娘を連れて苦労して家族で登ったことを思い出します。  本堂には弁才天が本尊として祀られています。お寺の歴史は古く、聖武天皇の勅願により行基が開基しました。戦国時代、浅井氏が信仰し、浅井三姉妹も帰依しています。信長の家臣だった明智光秀が竹生…
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石田三成の実像3178「関ヶ原大乱、本当の勝者」167 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」6 …

 白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の、「(この合戦で)上方より出陣の軍勢は5万ばかりであり、(そのうち)4000~5000も討死した、と(近衛前久のところへ来た者が)言った」と現代語訳されている部分について次のよ…
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旅行記289 講演会出席を兼ねての彦根旅行6 竹生島の唐門は大坂城の豪華な極楽橋の遺構 舟廊下は秀吉の御座船の骨組…

 竹生島の宝厳寺の唐門は、大坂城の極楽橋の一部で、秀吉の死後、京都の豊国廟の極楽門に移築されました。さらに秀頼の命により、竹生島に移り、唐門になりました。大坂城の極楽橋の豪華さは、2006年にオーストリアのエッゲンベルグ城で発見された「豊臣期大坂図屏風」によってその様子が明らかになりました。極楽橋については、ルイス・フロイスが、屋根は鍍…
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石田三成の実像3177 利休事件直前の三成の居所 「神屋宗湛日記」の気になる記述

 博多の豪商だった神屋宗湛は石田三成と懇意にしており、「神屋宗湛日記」にもしばしば登場しています。今一番気になっている記述は、天正19年(1591)2月5日の朝の茶会に三成が増田長盛、大谷吉継と出席しているという部分です。千利休切腹事件を三成が画策したということが小説やドラマでよく言われますが、これは冤罪だと考えています。利休が成敗され…
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旅行記288 講演会出席を兼ねての彦根旅行5 彦根港から竹生島へ・「琵琶湖周航の歌」の歌碑・学生時代歌っていた歌 

 11日は彦根港から船に乗って、1人で竹生島へ行きました。彦根港には、「琵琶湖周航の歌」の碑が建っています(五番の歌詞に「古城」が出てきます)。旧第三高等学校(現・京都大学)のボート部員によって作詞され歌われたもので、第三高等学校の学生歌になりました。私も学生時代、真如堂の友達の下宿で歌いましたし(離れだったので、気兼ねなく歌えました)…
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石田三成の実像3176 「関ヶ原大乱、本当の勝者」166 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」5…

白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の、「(この合戦では)同じ組になっていた者(大谷吉継)に対して小早川秀秋は手を返した(裏切った)ので、その太刀場(戦場)において大谷吉継は討死をして、(小早川秀秋は大谷吉継の軍勢を…
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旅行記287 講演会出席を兼ねての彦根旅行4 「石田三成ゆかりの宮」の千代神社・もともと佐和山の麓にあったのを三成…

10日の午後、彦根散策の最後に、千代神社を訪ねました。何年かぶりですが、「石田三成ゆかりの宮」ということが前面に出されていたのに驚く一方、嬉しくも思いました。三成の姿を描いた幟や看板が立ち、御朱印もありました。千代神社は、もともと佐和山の麓にありましたが、三成が佐和山城の城主になった時に、山の上から神社を見下ろすのは畏れ多いということで…
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石田三成の実像3175 「関ヶ原大乱、本当の勝者」165 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」4…

 白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の内容について詳しく検討されていますが、その続きです。  「(この合戦では家康方の軍勢が)即時に切り立てて(切りかかり)、大利(大勝利)を得た」と現代語訳されている部分について…
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旅行記286 講演会出席を兼ねての彦根旅行3 彦根城の馬屋・夢京橋キャッスルロードの「あかり館」、酒「鬼の左近」、…

 彦根城の玄宮園を見た後、開国記念館の前を通り(石田三成と佐和山城に関する展示がされていた時には、何十度となく見学していますが、今回はパスしました、佐和口多聞櫓の中にあります)、すぐ隣の馬屋跡を少し見学しました。L字形になっており、21頭の馬立場(うまたちば)・馬繋場(うまつなぎば)が設置されています。当時は藩主の馬などが常備されていま…
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石田三成の実像3174  白峰旬氏「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」9 「7月19日付福島正…

 白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」(『史学論叢』第51号所載)で、次に「7月19日付福島正則宛徳川家康書状写」が取り上げられ、その内容解釈がされていますが、その続きです。  この書状の中で、「黒田長政と徳永寿昌が奉者(奏者)として詳しいことを述べる」と記されている部分についての水野伍貴氏の見解が紹介さ…
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旅行記285 講演会出席を兼ねての彦根旅行2 紅葉が残っていた彦根城の玄宮園

 仙琳寺の石田地蔵を見た後、講演会場である商工会議所まで行って場所を確認した後、彦根城の玄宮園まで足を延ばしました。紅葉がまだ残っているかどうか確かめに行きましたが、幸いところどころで見られました。玄宮園を初めて訪ねたのは三十年近くも前で、家族連れでしたが、突然雨が降り出し、茶亭に逃げ込み、雨宿りをしたことを思い出します。三成にとっては…
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石田三成の実像3173「関ヶ原大乱、本当の勝者」164 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」3 …

白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の内容について詳しく検討されていますが、その続きです。「上方の軍勢4万ばかりがそれぞれに備(を立てて)青野ヵ原にて合戦があった」という記載の「青野ヵ原」という地名について次のように…
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旅行記284 講演会出席を兼ねての彦根旅行1 石田三成の実像3172 仙琳寺の石田地蔵・江戸時代に領民が石田一族を…

 10日の夜、彦根で中野等氏の講演会「秀吉と三成」(当初は10月に行われる予定でしたが、コロナの影響で延期されました)があったので、昼頃、彦根入りしました。午後に、三成ゆかりの場所や彦根城の玄宮園などを廻ってきましたが、まず仙琳寺の石田地蔵を久しぶりに訪ねました。門が閉まっているので、2、3度引き返したことがありますが、裏手の鉄道をまた…
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石田三成の実像3171  白峰旬氏「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」8「7月19日付福島正則…

 白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」(『史学論叢』第51号所載)で、次に「7月19日付福島正則宛徳川家康書状写」が取り上げられ、その内容解釈がされています。  まずこの書状について、「原本は伝存せず、7月9日付、7月19日付、7月24日付の3種が伝存し」、「これまで本多説では7月24日付を採用し、拙説で…
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京都探訪343 源頼政の家臣が開いた宇治茶の老舗「通圓」・橋寺とも呼ばれる「放生院」・境内にある「宇治橋断碑」

京阪宇治駅のすぐ南の、宇治橋の東詰めに宇治茶の老舗「通圓(つうえん)」があります。興聖寺を拝観した帰りに、この店に寄って、土産の茶団子を買いました。普通の茶団子よりも、茶の味が濃く深みがあります。  初代通圓は、源頼政の家臣だった古川右内と名乗っていた武士でしたが、隠居してこの地に庵を結び、橋守をしていました。しかし、頼政が平家打…
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石田三成の実像3170「関ヶ原大乱、本当の勝者」163 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」2 …

 白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の内容について詳しく検討されていますが、その続きです。  「家康は(家康方の諸将の兵力と合わせて)5万ほどにて、手人数をそれぞれ別(々)に備【そなえ】(を立て)られて居陣した」…
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京都探訪342 宇治川太閤堤跡歴史公園 秀吉が伏見城へ物資などを運ぶために淀川や宇治川を改修し、大規模な築堤

先月の26日に宇治の興聖寺を訪ねる前、宇治川太閤堤跡歴史公園に少し立ち寄りました。今年、完成したばかりですが、公園を作るのに何十億円という市の税金が使われるので、建設反対運動も起こりました。私も手放しでは喜べず、複雑な思いを持っているのですが。  太閤堤の遺構が発見された時には、現地説明会に二度、足を運びましたし、その後も幾度か訪ね…
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石田三成の実像3169 白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」7「7月29日付大関資増…

 白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」(『史学論叢』第51号所載)で、まず「7月29日付大関資増宛浅野幸長書状」が取り上げられ、その内容解釈を拙ブログで紹介していますが、その続きです。  「駿州ゟ上之御人数ハ何も国々ヘ御返し二候」という記述について、次のように解説されています。  「『駿州』とは駿河国の…
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植村正純氏の随想「言葉との再会」1 「星の王子さま」に出てくる二度の「ADIEU(アディーユ)」 フランス文学探訪…

 短歌会の共同代表の三嶋氏から「日本言語文化研究」の会誌をいただきました。その中に、植村正純氏(短歌の師である植村武先生のご子息) の随想「言葉との再会」が掲載されています。まずフランス語の「ADIEU(アディーユ)」の語について考察されています。日本語では「さようなら」と訳されますが、フランス語では「永遠の別れ」を意味します。その例…
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石田三成の実像3168「関ヶ原大乱、本当の勝者」162 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」1 …

 白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の内容について詳しく検討されています。まず、前日の記述の中で、「いまだ家康は大軍なので路次がつかえ、江州(近江)守山あたりに居陣している」と現代語訳されている部分について、次のよ…
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